第6話 朝霧のメモリア

 我が身のことながら思い返せば、ませた子供だったのだろう。

 エストリアの下級貴族であった父に連れられ、初めて都城したのは8歳の誕生日であった。

 大した爵位は与えてやれなかったから、せめてわが身一つで誇り高くいられるようにと仕込まれた剣術の腕を見込まれ、エストリア国王の戯れでリスティーナ王女の護衛役見習い、という名の遊び相手の任を与えられたその日から、アスラルの心は決まった。


 いつか、このお方を守る、立派な騎士になるんだ。


 それから暫く後、エストリア城にいる騎士や兵士、メイドにいたるすべてのあいだで、アスラルの名を知らぬ者はいなくなった。

 エストリア城内にある訓練場で、大人たちに交じって稽古を重ねる小さな剣士の噂が広まっていったのだ。

 その剣士は、子供用の木剣では舐められるからと、大人用の模擬剣を振るっていた。

 けれどひと振りでは大人の先輩騎士にまるで勝てないから、無理やりにふた振り持つようになった。


 はじめは、子供の戯れ事だと、皆が笑って見ていた。

 すぐに音を上げるに違いない、と。

 だが、アスラルに稽古をつけた者の中から、ひとり、またひとりと、一本取られる者が出てくるようになった。

 そして、白星の数が黒星を超えるようになった頃、いつしかアスラルの周りにはこんな言葉が渦巻いていた。



 騎士にとって剣とは、ただの武器ではない。

 仕えるべき主への忠誠を示す証なのだ。


 ただひとり仕えるべき主へ捧げた、永遠の忠義。

 それを示すのが騎士の剣である。


 ゆえに、ふた振りをもって騎士を名乗るのは、

 すなわち二君に仕えることをよしとする背徳行為である。



 負け犬の遠吠えだ、と一笑に伏すこともできたかもしれない。

 しかし、幼いアスラルにはそれができなかった。

 リスティーナ王女の騎士であるために誰よりも強くあらねばと二刀を振るうようになって、同年代の中にアスラルと渡り合える者は、もはや一人もいなくなっていた。

 だがそれは、敵を倒すことで自らの存在価値を証明する傭兵のごとき戦い方ではないのだろうか。

 そんな後ろめたさが、10歳の少年であるアスラルの腹の底に、いつものたくっていた。


 そんなことはない。

 そんな不義など毛頭ない。


 そう否定して腹の底から追い出しても、それはまるで埃が降り積もるかのように、気がついたらアスラルの中に沈殿していた。

 いいや、そんな生易しいものではない。


 まるで老廃物。

 自らが強くなるために重ねた研鑽という食物を得るたびに、必ず排泄される糞尿のごとく湧き出てきた。


 それを無くそうとするためには、これ以上強くあろうとすることをやめるか、大人たちの言うように剣ひと振りで強くなるために一から出直すか、どちらかを選ぶしかない。


 前者は考えられない。高みを目指さぬ者がリースの護衛騎士に相応しいとは到底思えないし、より強くあれというのは騎士の本分でもある。


 ならば取るべき道は後者しかないのだが、そうすると本当に一からの出直しだ。

 今まで培ってきた二刀の鍛錬が無駄になることは決して無いが、それでも最初から一刀で鍛錬してきた者には僅かな、そして致命的な遅れを取ることだろう。

 それが原因で、リスティーナ王女の護衛役たる資格無しと判断され、見習いの立場を他の子供に……自分よりずっと家柄のいい、けれどただそれだけの者に取られるかもしれない。

 そんな恐怖に怯えながら生きなければならないなんて、考えただけで震えが止まらなくなる。


 結局、この腹の底にある後ろめたさとはずっと付き合ってゆくことになる。

 それが自分の選んだ強さの代価なのだ、と。


 そう割り切るしかないと思っていた自分を救ってくれたのが、他ならぬリスティーナだった。

 本来なら護衛である者が一国の王女に悩みを打ち明けるなどありえないことなのだが、そこは子供同士の気安さだったのだろう。

 いつもの鍛錬での練習試合で、お定まりの苦言を散々聞かされたことが顔に出てしまっていたアスラルに、リスティーナはずっと元気の無い理由を問い続けた。

 敬愛する王女殿下に隠し事などできないし、ましてや嘘を吐いてその場を凌ぐなど考え付きもしなかったアスラルはとうとう根負けして、言わなくてもいいような愚痴まで全部吐露してしまった。

 けれどリスティーナはそれを聞いて驚いたように眼をぱちくりさせると、やがてそっとアスラルの手を……すでに古木のようになりはじめていたゴツゴツの手を取り、ぱあっと、花が咲いたように笑ってみせた。



「アスラルはエストリアの騎士だけれど、わたくしの騎士でもあるんだもの。だから剣はふたつ必要なの。

 エストリアのための剣と、わたくしのための剣。

 もしひとつだけだったら、わたくしはいつもお父様からアスラルを借りなきゃいけないことになるじゃない。そんなの嫌だわ。

 だからアスラルは、わたくしの騎士であるためにもうひとつ剣が必要なの。当たり前のことだわ」



 それが本気で言ったものなのか、それともアスラルを慰めるためのリスティーナなりの方便だったのか、当時のアスラルには分からなかった。

 けれどそんなこと、どうでもよかった。

 その日を境にアスラルはますます剣の腕に磨きをかけ、11歳の誕生日を前に、とうとうエストリアで一番と謳われていた先輩騎士から、見事一本を取ったのである。


 それだけではない。今まではただ、強くあることがリスティーナ王女の護衛騎士であることの条件だと思い、剣術に武術、馬術の稽古に明け暮れていた。

 けれど、もしそんな武芸ばかりが能の無骨者が王女殿下の傍をウロウロしていたら、彼女の品格まで疑われてしまうかもしれない。

 そんなことあってはならぬと、それまでは必要最低限で済ませていた紳士の嗜みとしての礼法にダンス、詩の暗唱。

 そして、生きとし生ける者すべてを守り救う者としての心構えを示す、エルカーサ信仰。

 王族の傍に仕える者として相応しいと言われるようなことを、思いつく限りやっていった。

 そして迎えた15歳の成人の儀。

 アスラルは名実共に騎士の鏡として、多くの騎士たちからの祝福の中、エストリア王からリスティーナ王女の護衛『正』騎士として叙任されたのであった。


 ……けれど。


 けれど、アスラルは知らなかった。

 いいや、そんなこと思いつきもしなかった。

 その祝福や賛辞の中に潜んだ、無数の嫉妬や中傷、侮蔑の念いに。


 そして、アスラルの叙任を見つめるリスティーナの熱いまなざしに、いずれは自分の息子を彼女の婿とし王家に名を連ねようとする者たちの焦りや怯えなど、そのときのアスラルには想像だにできないものであった。


 ましてや、手に入らぬのならば奪えばいいなどと。


 エストリア王にしてやると唆されてメリカールと内通し、主君を裏切るような者がいるなどと、


 及びもつかないことであったのだ。




               〇




 鼻の奥をくすぐるような刺激を受けて、アスラルはゆっくりと目を覚ました。

 柑橘系のものだろう、部屋中にうっすらと漂う香りのおかげなのか、随分と懐かしい夢を見た。


 アスラルにとって愛しさと、そして計り知れぬ後悔とが綯い交ぜになった、懐かしい夢を。


 悪い夢だと頭を振ることもできた。

 けれど、たとえ夢の中であっても再会することのできた敬愛する姫君の姿を覚えておこうとしたおかげで、アスラルの頭は寝起きすぐにもかかわらず、すんなりと活性化する。

 そのため、夢の内容以上に、今の自分が置かれている状況のほうをより深く認識する結果となったのは、少し皮肉であった。


 妖魔悪鬼の国ルーセシアをこの地より浄化すべしという名目のもと行われた、一方的な宣戦布告。

 メリカールの剣奴隊に配備され、無謀な突撃をして手酷い損害を被った本隊を逃がすための殿しんがりという名の、捨石にされたこと。


 そこで対峙した、ルーセシア女王パナヴィア。

 彼女の気まぐれにより、命を救われたこと。

 そして今、そのパナヴィアの愛玩動物いう立場で、生かされていること。


 何の冗談だと思いそうになるが、自分が今ここで……パナヴィアの部屋の床で目を覚ましたことが何よりの証拠だ。


「……まだ、眠っているんだろうな」

 天蓋付きの大きなベッドが目に入る。薄絹の幕が覆うベッドからは、微かな寝息が聞こえてきた。

 アスラルの予想どおり、この部屋の主は朝のまどろみの中にいるのだろう。

 なるべく音を立てないようゆっくりと起き上がる。

 ペット用として宛がわれた……それでも、メリカールの闘技場で剣闘奴隷として飼われていた頃に使っていたものとは天地の差がある敷布団と毛布を簡単に畳み、

「パナヴィア様に恥をかかせぬための、最低限の身なりをすべし」

 と与えられた下男用のお仕着せを身にまとった。

 これもまた、剣闘奴隷のときに着ていたボロ布とは比較にならない上物だ。


 窓から差し込む光を見るに、まだ夜が明けて間もない時間帯なのだろう。

 闘技場で殺戮ショーに明け暮れていた頃は、夢を見る余裕も無いほどに心身ともに疲弊しきっていたのに、まさか敵国の……それも敵の総大将の愛玩動物なんて立場になって、こんなにも穏やかな朝を迎えることができるとは。


(おはようございます、リスティーナ様。アスラルは、今日もまだ生きております)


 北の……遥か遠くメリカールの王都にいるのだろう自らの主君に一礼し、アスラルは静かに、パナヴィアを起こさぬようゆっくりと扉を開け、部屋を出た。


(いつの日か、貴女をお救いするために、恥を忍んで生きております)

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