第42話 謀略の終焉

 カリウスの脳裏にあったのは、すでに勝利ではなかった。

 生還。ただその一言であった。


 どれだけ思い返しても悔やまれてならなかった。

 どうしてあそこでリスティーナを斬ってしまったのか、と。


 目の前で起きた堂々たる裏切りに、つい頭に血が上ってしまった……と言ったところで取り返しがつくはずも無い。

 まるでその一撃が。

 リースを斬ったその一太刀が引き金であったかのように、数万の威容を誇っていたメリカール軍は、見るも無残に切り裂かれていったのだ。


 しかも、カリウスを裏切ったのはリースだけではなかった。

 今まで唯々諾々と従うだけだったはずの敗戦国の奴隷兵たちが、次々に反旗を翻したのだから。

 多くは逃亡、という形を取ったが、かなりの数がルーセシア兵と共に城壁へと押しかけてきたのだ。

 何十という矢を受けても倒れることなく長梯子を支えるトロール兵と、その梯子を跳ねるように駆け上がってくる人狼ヴェアヴォルフ兵。

 そして、人狼兵に遅れて次々と城壁へと這い上ってくる奴隷兵たちの憎悪に満ちた瞳は、カリウスのみならず多くのメリカール兵を震え上がらせた。


 その恐怖に打ち克てるほど、カリウスは強くは無かった。

 当然だ。今までカリウスは策を弄すだけ弄して、戦場に出ることは無かったのだから。

 出ることがあるとすれば、それは粗方片付いた戦後間もない戦場であって、あるのはすべて、自分に平伏する自国兵と、無言で地に伏す敵兵の屍ばかりだった。

 死など微塵も恐れはしないと襲い掛かってくる敵を迎え撃ったことなど、一度としてなかったのだから。


 そんなカリウスにできたことは、逃げることだけだった。

 襲い掛かってくる敵兵はすべて護衛兵に押し付けて、脇目もふらず逃げるだけだった。


 勿論、闇雲に逃げたわけではない。

 砦を落としたときに、調べておいたのだ。

 大まかな見取り図の作成や施設の把握などは兵たちにやらせ、報告を聞くだけにしておいたが、そこだけは自らの手で確かめた。


 武器庫の片隅に隠れるように作られた、緊急用の脱出口だけは。


 主だった諸将に配られる見取り図には、わざとそれを描かせなかった。

 逃げ道があることを示しては戦意が削がれる、退路は無しと覚悟を決めることで全軍の士気を高めるのだ……などと言ったが、本音は独占だ。

 いざというとき、脱出口に人が殺到しないための、自分が最優先で逃げられるようにするための措置だ。

 そのせいで武器庫を……脱出口を守る兵は、ただの一人としていなかったのだ。


 そんな中、ひとり自分を追ってきた男がいた。

 血と汗と泥に塗れているというのに、その表情に疲弊の色を微塵も感じさせない、冷たい瞳をした男。


「あ、ああ、アスラル……な、なぜ、ここに……っ!?」

「……お前なら、ここに来ると思っていた」


 表情と同じく、感情の欠片も無い冷ややかな声だった。


「もしかして知らないとでも思っていたか? ここは元々ルーセシアの砦だぞ。王を逃がすための場所くらい把握しておくのは当然だろう?」

「そ、そうではない! どうしてリスティーナのところではなく、なぜ……なぜ、余のところへ来るのだ!?」

「どうして? リース様が俺に言ったのは、会いたいでも、助けてでもない。カリウスを討て、それだけだ。騎士である俺が君命に従うことの、何がおかしい?」


 冷静に聞けば、その声は震えていた。

 今すぐにでも怒鳴り散らしてやりたい怒りを必死に押し殺した、騎士であり続けようとする強い意志の込められた声だった。

 しかしカリウスにはそれが、悪魔の声に聞こえた。

 目の前で主君を失ったことで復讐の鬼となり、人間の感情をすべて捨てた殺戮の妖魔の声に聞こえてならなかった。


「た、たのッ、頼む! 余が……余が悪かった! 見逃してくれ、許してくれぇっ!」


 そんな怪物を前に、カリウスに戦う術などあろうはずがなかった。

 人間に対しては神のごとく尊大に振舞えても、悪魔の前でそれを貫けるほどの胆力などカリウスには無かったのだ。


「し、仕方なかったのだ! 余とて本意ではなかった! すべて父に……悪逆非道のメリカール王に言われて、仕方なくやらされたに過ぎぬのだ!」


 地に這い蹲り、額を床にこすり付けてひたすらに嘆願するその姿に、もはや王族としての威厳など微塵もなかった。

 それどころか、自らが生き残るためには父にすべての罪を押し付けることにさえ、何の躊躇いも無かった。


「……メリカール王に?」


 頭の上から降ってきたその声が僅かに変質したように、カリウスには感じられた。


「そ、そうとも! お前とて知っていよう、我が父王の非道ぶりを! あの男は人間を人間とも思っておらぬ、血も涙も無い悪魔だ! その証拠に奴は、このルーセシア侵攻に失敗したら、余を……血を分けた我が子を処刑すると言ったのだぞ!? 一度! たった一度失敗しただけで、だ!

 過ちを犯さぬ人間など、この世にいようか! 人であれば皆、誰しも間違いを犯すものだ! しかしあの男はそれを許さぬのだ! 自分の意に沿わぬ者を殺すことに何の躊躇いも抱かぬ、残虐非道の王なのだ!

 そのような者に命令されては従うほかあるまい!? 頼む、許してくれ! この哀れな余を見逃してくれぇっ!」


 その隙を突くかのように、カリウスはただ弁解を並べる。

 もはや嘆願ではない、父王アメルクリス4世がいかに悪人であるかを表すべく、ひたすらに蔑み、貶め、罵り尽くす。


「……そうか」


 どれだけの時間が経ったろう。

 一秒が何時間にも感じられるほどの長い沈黙の末、ぽつりとアスラルの口から言葉が零れる。


 その声にカリウスが顔を上げて、驚いた。

 自分を見下ろすアスラルの顔には、確かな感情が浮かんでいたのだ。しかし、それは怒りでも憎しみでもない。


 憐れみ。

 矮小な者を見て、けれどそれを蔑むことさえ憚られるといわんばかりの、憐れみに満ちたものだった。


「た、頼む……アスラル、頼む! もしも罪を償えというのなら償おう。二度とこのような愚行は犯さぬと、神に……エルカーサの名に誓おう!」


 しかし、そんなことは今のカリウスにはどうでもよかった。アスラルは自分を憐れんでいる。そこに付け込まない手は無いと、大袈裟な懺悔の言葉を並べる。


「……本当に?」

「ほ、本当だとも! 余は、この誓いを破らぬ! 絶対にだ!」


「神の名に誓う、と?」

「誓うとも! 余はこれでもエルカーサの信徒だ! すべての生命と誕生を司る神の御前に、余は自らの命をかけてでも誓おう!」


 カリウスの仰々しいほどの嘆願に応えたのは、やはり憐れみに満ちた小さな溜息だった。



 ……だが。

「行け」



 カリウスは再び驚いた。

 アスラルは手にしていた剣を下し、しかもあろうことか背を向けたのだ。

「み……見逃して、くれるのか……?」

「勘違いするな、俺はお前を許しはしない。しかし、騎士であると同時にエルカーサ様の信徒として、懺悔する者に向ける刃は持たない」


「お、おぉお……感謝する、感謝するぞ……」

「それと、お前の言ったことが本当なら、今ここで死ぬか後で死ぬかの違いなだけだ。国へ帰っても、こんな失態を犯したお前はどうせ処刑されるんだろう?

 いや、それ以前に国に帰れるか疑問だな。今頃国境沿いじゃ山賊や野盗たちが、こぞって敗残兵狩りをしている頃だろう。なにせこれだけの大軍勢が負けたんだ、武器も鎧も奪い放題、奴らにとっては稼ぎ時だ。

 その中を抜けて無事に王都まで帰ることができるとは思えない。俺が殺すか、野盗が殺すか、メリカール王が殺すか……それだけの違いだ」


 背を向けたまま、まるで吐き捨てるように言うアスラルの言葉に、しかしカリウスはわらいを堪えるのに必死だった。


(馬鹿だ馬鹿だと思っておったが、こいつの馬鹿は筋金入りだ! それが騎士道だとでも言うのか? 愚図ぐずめ! その下らん騎士道に散々利用されてきて、こやつはまだ自分を慈悲深い騎士だと勘違いしているのか!?)


 そう、化物と戦う術は、確かに無い。

 しかし、悪魔でさえも欺き、浅ましく生にしがみつこうとする執念なら、滾るほどにあった。


 音を立てぬよう、カリウスはゆっくり立ち上がった。

 そして、腰の後ろに忍ばせた護身用の短剣に手をかける。


「感謝するぞ、アスラル。お前こそまさに騎士の鏡だ」

「黙れ、感謝などという言葉をその口で吐くな。感謝が穢れる」

「そう言うなアスラル、余は本当に感謝しておるのだ! お前のその高潔な騎士としての姿に!」

 そして、背を向けたアスラルのちょうと心臓部分めがけて、それを。


(そう、まさに騎士の鏡よ。主である余のために、死んでくれるというのだからなぁ!)


 突きたてた!



「ああ、それと。ひとつ言い忘れていた」



 ……突きたてた、はずなのに。

 目の前にいるアスラルから返ってきたのは苦悶の声ではなく、いまにも世間話を始めようかというふうな、いっそ拍子抜けするほどに気の抜けた声だった。


(な、なぜだ!? なぜこやつは死なないのだ!?)



「剣闘奴隷にされて闘技場に放り込まれてからというもの、来る日も来る日も戦いの連続だった。しかもどういうわけか、気がついたら対戦相手が2人になり、3人になり、多いときは5人も一度に相手をさせられることもあった。

 そのおかげ……なんて言うのも変な話だが、敵に囲まれた状況での戦い方を骨の髄まで叩き込まれたよ。


 ……正面から戦う実力の無い、背後から襲いかかる雑魚を真っ先に殺せ……ってね」



 その言葉に、カリウスの表情は三度みたび驚愕に彩られた。

 ただし。


「ひっ、ぎやぁあぁあぁぁぁああぁ!?」


 今度は、激痛と絶望とが綯い交ぜになった、異常事態に対する驚愕だった。

 無理もなかった。アスラルに突きたてた……

 いいや、突きたてようと繰り出した短剣を持った手の、肘から先が無くなっていたのだから。


「だから俺に後ろから襲い掛かるのはやめたほうがいい、手加減ができないから……と忠告しようとしたんだが、少し遅かったみたいだな」


 まさに、一閃。

 カリウスが短剣を突き刺すかというところで、アスラルのだらりと下ろしていたはずの剣が一瞬にして跳ね上がり、カリウスの右腕を切り落としたのだ。

 後ろを振り返ることもなく。

 まるで最初からそこになにがあるのか、すべて理解していると言わんばかりの。

 寸分の狂いも迷いも無い、一閃であった。


「ぎぃぃーーーーーーーーっっっ!? き、きキッ、貴様ぁ!? よくも……よくも、余を、騙したなぁッ!?」

「騙す? 人聞きの悪いことを言うな。もしお前が大人しく逃げたのなら、俺は本当にこの場を見逃すつもりでいたんだぞ?」


「う、うううう嘘だ! なにが! なにがエルカーサの信徒だから、だ!? そうやって余を油断させて、殺すつもりであったのだろうがぁ!? 助けると……助けると言ったクセにぃぃいッ!」

「……なにか、勘違いしてないか? 俺がお前を、助ける? 言ったはずだぞ、俺はお前を許しはしない、と。だが、お前が本心から罪を悔い改め、神の御前に懺悔するというのならば、俺はそれを罰することができない、と言っただけだ。どこに嘘がある?」


「おぉぉおのれおのれおのれおのれぇぇえ!? よくも、よくもぬけぬけと! それで一人前に余を欺いたつもりかぁ!? 愚民の分際でぇ!? 奴隷の、分際でぇええぇ!」


 今まで散々馬鹿だ愚かだと蔑んできた相手に騙されたという怒りが、腕を切り落とされた痛みすら忘れるほどの憎悪を呼び起こす。

 先ほどまでしていた命乞いなど嘘のように、親の仇を前にしてもこれほどまでの恨みと憎しみが表せるだろうかと思うような鬼気迫る形相で、カリウスはアスラルを睨みつけた。


「そうだな、言うとおり俺は愚かだった。お前の言うことに従っていれば、いつかリース様と共に幸せになれると信じていた俺は本当に阿呆だったと思うよ。けど、その阿呆なりにも幾つか学んだことはある」


 しかしゆっくりと振り返り、カリウスを見つめるアスラルの瞳は、いっそ恐ろしいほどに静かで、冷めていた。


「世の中には色んな人間がいる。一目見ただけでは化物と思うような姿の、実直で純粋な者たちを、俺はたくさん見てきた。だからこそ、よく分かる」

 そして、その手にした剣を。

 アスラルの表情を、瞳を、心をそのまま形にしたかのような、冷たく輝く剣を振り上げる。




「人間の皮を被った、悪魔よりも醜い化物もいるのだということが! よぉく!!」



「ぁあああぁあぁあああすらるぅーーーッッ! このぉ、この、卑怯者めがぁ! 呪われろぉーーッ! 地獄に堕ちるがいいいぃぁぁっ!?」




 この世のものとは思えぬ怨嗟の声めかげて、アスラルは一直線に。

 迷いも、躊躇いも無く、剣を振り下ろした。


 断末魔すらなかった。

 いや、もしかしたらその憎悪の叫びこそが、カリウスの断末魔だったのかもしれない。


 卑怯者。アスラルをそう罵って、カリウスは死んだ。

 今まで誰よりも相手を騙し、欺き、蹴落としてきた者ゆえに、誰一人として信じることができなかった者らしい、そんな末期の叫びだったようにアスラルには思えた。


 その姿はあまりにも哀れで、愚かしくて、呆気なかった。

 そして。


「……どうして、こんな奴が……。こんな奴に、リース様は……」


 そんな者に今までいいように利用されてきた自分が、どうしようもないほどに無力な存在に思えてしまってならなかった。


 復讐を果たしたというのに、アスラルの心には、歓喜も、達成感も無かった。

 代わりにその心を満たす悔しさや切なさ、やるせなさが溢れだし、それは涙となって、アスラルの瞳からひとつ、零れ落ちたのだった。

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