第44話 奇跡の乙女2

 微かに聞こえた声に、パナヴィアは思わず頬を綻ばせそうになって、やめた。

 なぜなら、相変わらずパナヴィアの中に伝わってくるのは、穴の開いたグラスに水を注いでゆくような徒労感だけなのだ。

 術が成功したとは、到底思えない。


(そうじゃ、そちが死んでは今日まで生きてきたアスラルの思いはどうなる!? 忠義を尽くした騎士に恩賞のひとつでもくれてやらんで死ぬなど、同じ女王として許さぬぞ!)


 代わりに、パナヴィアはより強くアスラルを……いいや、クロス=クレイモアを思い浮かべる。


 自らの命そのものを武器にするかのような戦い方であるくせに、生にしがみつこうとする意志の強さは人一倍だった。

 それに興味を引かれ、気まぐれに助けてみたその男は、パナヴィアが思っていたよりもずっと幼い、純粋な心を持つ少年のような男だった。

 真っ直ぐで、嘘の吐けないその男は、自分が生き延びるためにパナヴィアを守った。


 ……そう。あくまで、自分が生き延びるために、術者であるパナヴィアを守った。そしてその理由は、自らが忠誠を捧げた一人の女性を、救わんがため。

 純粋で、頑強で、寸分の歪みも無い鋼のごとき意志つるぎを、脆く儚いガラス細工のようなさやに収めた男は、あくまで祖国の騎士として生き、祖国の騎士として死のうとした。

 そんな姿が、パナヴィアの目にはとても眩しく映った。


(これほどまでの忠義を捧げられておいて死のうなど、なんともお姫様らしい贅沢なことじゃ! そちに女王としての誇りと気概があるのならば、そちに仕える騎士のためにも生きよ! アスラルがそうしたように、生き汚く足掻いてみせるがいい!)


 声にならぬパナヴィアの叫びが、流れゆく『命』を通して伝わったのかどうかは分からなかった。

「……さ、ま……?」

 けれどそれを肯定するかのように、擦れてはいるがその声ははっきりと聞き取れるほどのものとなった。


「よい、よいぞ。そうじゃ、そのまま強く……心を強く持つがいい。あのアスラルの主君であるというのならば、諦めるでないぞ」

「あ……す、ら……る…………?」


「そうとも。そちはエストリアの女王なのじゃろう? なればこれしきのことで諦めてはならぬ。しかと目を開き、しゃんと立つがよい。そして見事そちの君命を果たし、祖国の仇を討ったアスラルを出迎えてやろうではないか」


 パナヴィアの呼びかけに、僅かずつではあるがリースの声に明確な意思が戻ってきたように感じられた。

 相変わらず手ごたえらしいものは感じられないのだが、もしかしてこのまま続ければ彼女は助かるのではないか。


「……かーさ、さま……ど……か……おゆるし……ください……」


 そんな一瞬の……儚い期待に応えたのは、パナヴィアが望んでいた答えではなかった。


「エル、カーサ……さま……どうか……どうか、アスラルを……おゆるし、ください……」


「ゆる、す……? 何を、言うておるのじゃ……?」


 あまりに脈絡の無い言葉に、思わずそう聞き返してしまった。

 だが、同時にやっと得心がいった。



「わたくしは、どのような……罰も、うけます……だから、どうか……アスラルは……アスラルだけは……お救い、くださいませ……」



 生きる理由が無いのではない。

 生きる意思が無いのではない。

 死ぬ理由が、あったのだ。


 信仰らしい信仰など持たぬパナヴィアにとっては何をたわけたことを、と思う程度のもの。

 しかしエルカーサの信徒にとって、それは罪深いことなのだろう。


 自らの利益のための殺人の罪。

 愛を抱かぬ者との姦淫の罪。


 この世のすべての生命と誕生を司るという神エルカーサの名において、何よりも恥ずべきこととされる、罪悪。

 パナヴィアにも分かった。

 傷付き、死の淵にあっても、むしろそれがより一層彼女の儚さと可憐さを引き立てるのではないかと思うほどの美姫びきだ。

 囚われの身であるあいだ、一体どれほどの望まぬ逢瀬を強いられただろう。

 そして、その自分に仕え続けてくれたアスラルは、一体どれほどカリウスに利用され、どれだけ多くの命を奪ってきたのだろう……と。

 エルカーサの信徒であるならば万の罰を受けても許されざるものであろうその罪を一身に受けることで、アスラルを救おうとしているのだ。



「愚か者め! 死して償える罪があるか!? 生きよ! 生きることこそ、まさに罰であろうが!

 王家の生き残りとして! 民を苦しめた暗愚の王族として! 騎士の誇りを弄んだ姫として! 生きて針のむしろに座るがいい! そちが不幸にした多くの民からの千の憎悪と万の怨嗟をその身に受けるがいい!

 それこそが王の務めであり、受けるべき罰であると心せよ! 死に逃げるなど、許さぬぞ!」



 喉も潰れよとばかりに叫ぶパナヴィアの声に、しかしリースの答えが返ってくることはなかった。

 代わりに、パナヴィアの中に伝わってくる手ごたえの無さばかりが、嫌になるほど明確なものへと変わってゆく。


(できぬのか!? 魔女だ悪魔だと散々言われてきたというのに、このようなときにばかり人であらねばならぬというのか……ッ!?)


 自覚はあったつもりだった。

 いいや、むしろそれこそがルーセシアすべての望みではないか。

 人であること。

 自分たちは悪魔でも、化物でもない。ただの人間だということ。

 その当たり前のことを証明するためにルーセシアは戦ってきた……はずなのに。


 今はそのことが、酷く情けなく思えてならなかった。

 無力であるのは人間の証明。

 人間ゆえにできないことはたくさんある。

 それでいいのだ、仕方がないのだ。


 ――私たちは人間なのだから。


「黙れ! 黙れ黙れ! そのような証明など要らぬ! 魔女でよい! 悪魔の汚名も甘んじて受けよう! じゃからせめて、この命だけは……ッ!」


 ――救わせてくれ……と。


 そんな切なる願いを神が聞き入れた……というのは思い過ごしだろうか。

 けれど、そう思うのも無理もないというほど、確かに。



 ……とくん、と。



 パナヴィアの流した『命』から、はっきりとした手ごたえが返ってくるのを感じた。

 一瞬、思い違いかと思った。

 リースを助けようとする強い意思が生んだ、儚い幻なのかと思った。

 だが、より深く。

 リースの全身に。

 『命』が零れ落ちるよりも多く『命』を注ぐかのごとくに深く、深く潜り込んでゆくと、確かにそこにはあったのだ。


 死にたくない、と。

 生きたい、と。

 そう願う、『魂』が。


(まさか、これは……ッ!?)


 希望と、絶望。

 感謝と、憎悪。

 そして、喜びと、悔しみ。


 相反する想いが濁流のようにパナヴィアの中を駆け巡る。

 これが本当に神の思し召しだとするのならば、神とはなんと粋で、残酷で、深遠で、滑稽なのだろう。


(これを、妾に決めよというのか……?)

(これを、迷うなというのか……?)


 僅かな躊躇ちゅうちょ

 しかし、パナヴィアは小さく笑った。

 先ほど自分で言ったばかりではないか。

 無力を嘆くことが人間の証明であるというのならば、そんな証明は要らない、と。


「……よかろう。妾の吐いた唾じゃ、妾に返ってくるというなら、甘んじて受けよう」


 もしこの選択が多くの者の怒りと恨みを買うことになったとしても、自分はそれをすべて受け止め、背負ってみせよう、と。


「それが女王としての……人間としての誇りじゃと、妾が証明してくれる!」


 決意を固め、パナヴィアは〝それ〟と向かい合った。

 パナヴィアの中から溢れ出んばかりの『命』が、流れる。

 本来ならば目に映らぬほどの微かなものであるはずのそれは、束になり、大きな流れとなって、パナヴィアの、そしてそれを受けるリースの体から溢れ出した。



 それは、命の奔流。



 生まれ、死に、神の元へと還ってゆく魂を運ぶ、生命の河。

 その流れを変えてしまうほどに大きな命の奔流は、人の目には余りにも神々しく、目を開けることさえできないほどの光となって溢れ出た。


 抗いようのない死を前にしたとき、命はただ刈り取られる前の麦の穂のごとく、恭しく頭を垂れるのみ。



 そして、それと同じく。

 その死を押し流すほどに溢れ出る生命を前にしたとき、人はまた静かに頭を垂れ、ただその名を呼ぶのだ。




 ――曰く、奇跡、と。

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