第5話

静かに夜は更けて行く。眠そうにくすぶる焚き火のそばで、毛布にくるまったナットさんが穏やかな寝息をたてている。優しげにまどろむ宵の一幕も今の俺を落ち着かせてはくれなかった。

何を隠そう、俺は今すごいピンチに立たされていた。


ーーヤバい! 漏れそう!


調子にのってナットさんの旨いお茶を何杯も飲むんじゃなかった!


そう、俺は今猛烈にトイレにいきたい。


じゃあ行けよ! ごもっとも!

でも、真っ暗な森のなか独りでトイレ行くってかなり怖いよ~。ましてや人食いのモンスターがうようよしているって話、さっき聞いたばかりなんですけど。

現地の人から!


でも、高校生と言うそれなりの年齢が、俺にちっぽけなプライドを持たせる。

『怖いから一緒にトイレにいって~』と、言う台詞を断固拒みたいのである。


ぬおぉぉぉーっ!


でも、俺のタンクはもう限界だ!

覚悟を決めてトイレに行くことにした。

せめてもの武装として剣を持ち、囮に使おうとハムを1つ袋に入れた。


人食いモンスターが現れたらハムを投げつける。そして、モンスターがハムを食べて居る間に逃げる。たいした時間稼ぎにはならないだろうが、大きなハサミを持った怪物から逃げ回るホラーゲームでは使えた手なんだ!

俺は一縷の望みをかけるぜ。


ハムの入った袋を背負い、剣をはいた状態で俺は内股にもじもじと歩きだした。本当に、回りに誰も居なくてよかった。こんな姿誰にも見られたくない。

決壊寸前のダムが不穏に波打つのを感じながら、ソロリソロリと離れた場所の茂みをめざす。


表面張力のコップ。手渡されたニトロ。

そう、少しの振動が大惨事をもたらす。俺は最新の注意を払いながら歩を進めた。


大木の影で用を足せた時の解放感たるや。

脳内ヘブンに虹が掛かる。俺は充足に深い溜息をついた。


--なーんだ、簡単なことじゃないか。俺は何をびくついていたのやら。


フフッと鼻で笑って遠くを眺める。


--はぁぁぁ~。あんなところに池があったのか~。


月光の光の筋が水面に落ちかかり、名も知らぬ浮草の可憐な花が、咲き乱れて仄かな甘い香りを漂わせている。


--いいね。絵になるね。


俺が真夜中に偶然切り取った自然美に目を細めていると、その池の中央に見事な白馬が現れた。長いたてがみをそよ風になびかせ、岸へと近づいてくる。


--おー。綺麗な馬もいたものだ。


いや、待てよ。

なんか聞いた覚えがあるよ俺。

確か、コルージャが言ってなかったっけ?

えーっと。


その間も白馬は俺の方に近づいてくる。

でも、水の上を移動してくるなんで普通の馬ではないよね?


「あ!」


その時、やっと思い出す。


ーーあれがもしかすると《ケルピー》なんじゃない?


馬がギャロップを開始。


--ヤバい! 俺が喰われてしまう!


背中に担いでいたハムを取り出して投げる。

お肉だもん。食べるでしょ?

ナイスコントロールでケルピーの傍に落ちるもスルー。


「ハム駄目ですか! ウェルダンな肉はお嫌いですか!」


俺は慌てて近くの木によじ登る。

でも、木登りなんて小学生以来だから手間取っていると、その間にケルピーはすごい早さで間を詰めてきた。俺のブーツの足を噛んで、引きずり下ろそうと引っ張る。クソゥ、こんなことなら女神さまに貰った金のブーツを履いておくべきだった!


「ギャーッ!」


ぐいぐいと引っ張られるも、俺は木にしがみついて耐える。


--落ちたらお仕舞いだ! 喰われる!


俺が命の綱引きを繰り広げている背後で、池の水面がゴボゴボと泡立つ。

パーンと現れたのはどこかで見覚えのある女神。


「あなたが落としたハムは、この金のハムですか!?」


--えぇ!? この状況で聞く?


バイト初めの居酒屋の新人店員のように、女神は嬉しそうに声を張り上げる。相変わらず可愛いけども!

いや……待てよ。もしかしたら助かるかもしれない。俺は素早く発想の転換をし、女神に助けを求めた。


「め、女神さま! 助けてください! 助けてください! ケルピーに食べられる!」


我ながら情けないなぁ~。とは思う。

でも必死なときの人なんてこんなものよ? 映画みたいにカッコいいこと言えないよ俺は。


噛んだブーツを力任せにブンブンと振り回すケルピー越しに、金と銀のハムを持った女神が『あらあら』といったような顔をして俺を見ている。


「シンザ。こら、お止めなさい!」


ハムを片手で抱えながら、もう片方の手で馬の尻尾を引っ張る。それは飼い犬を叱るような感じだ。

そんなんで良いのと思っていると、ケルピーはとうとう俺の足から奪ったブーツをくわえ、渋々といったようすで離れていった。


「ありがとうございます」


木からずるずると降りて礼を述べる。

やっぱり泉の女神だから妖獣も言うことを聞くのかな。女神は空いた方の手でケルピーの鱗におおわれた体をよしよしと撫でている。


そして俺のブーツは、ケルピーの鋭い歯に噛み砕かれて、みるみるボロ雑巾に変わっていった。


--あぁ~、ブーツが……。ヨダレでべちゃべちゃに。


でも、俺の身代わりになったのだと思えば少しは諦めがつくかも。だって女神が来なかったら、今頃俺はレバーを残して奴の腹のなかに収まっていたのかもしれないのだから。


「すみませんね、うちの子が。ご飯はちゃんとあげてるんですけどね」


俺はおやつか!

小腹がすいた夜中につまむ夜食の類いか!

それなら俺が投げたハムでも良かったじゃん!

食べ物を粗末にする罰当たりな奴め。と顔をしかめた俺に女神は一言。


「生肉が好きなんですよね。飼い慣らしても野生の頃の嗜好が消えなくて」


物騒なペットですね。


「えっと、それよりもですね」


今俺の生きるか死ぬかだった問題をさらりと流して、女神が手に持っていたハムを差し出す。


皆まで言うな。

言いたいことは分かっている。


「俺が落としたのは普通のハムです」

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