第3話
お願いだ! 見逃してくれ!
今ならスプーンが曲げられる!
そのくらいの気合で俺は念じた。ここで捕まるのは絶対にヤバイ。
スンスンと匂いを嗅ぐ鼻息が近付いてくる。
クソッ! 匂いか!?
人間の匂いで後を追ってきているのか!
俺はなるべく外から見えないように、木の洞穴の奥の方へ下がって身を縮めた。だが、俺のそんな努力も虚しく、例の鼻息は猟犬のごとく確実に近づいていた。
木のうろの前で大きく息を吸い込む音がする。洞穴の空気が全部吸い取られるのではないかと思うような吸引力だ。俺は木の洞穴の中に怪物が手を突っ込んでも掴まらないように、木の壁の突起に手や足をかけ、上の方へとよじ登る。
しばしの静寂が訪れ、俺は都合主義にも、一瞬ヤツが諦めたかもなんて思ってしまった。そっと洞穴の裂けたような入口を伺う。光の入ってくる木の裂け目から、大きな緑の目が俺を見つめていた。
ヤバい!
途端に腕が伸びてきて洞穴の入口を破壊する。侵入した手が俺を掻き出そうとして洞窟内の壁を掻きむしった。俺は必死に壁のくぼみに身を伏せてその手をやり過ごす。
バギバキ、ガリガリと木のうろが破壊される音の向こう。聞き覚えのある声が聞こえる。
「マサルーッ!」
ナットさんの声だ!
粉塵と砕けた木屑の匂いが蔓延する穴の中、ホコリが口に入るのも構わずに俺は叫ぶ。
「ナットさん! コルージャさんを連れて来てっ!」
『逃げて!』と言って素直に逃げ出すナットさんではない。俺の知る限り、ナットさんはそういうことをしない人だ。だから、そう叫んだ。助けを呼んできて欲しいと。
「マサルーッ! マサルーッ!」
キーキーとネズミ特有の金切り声になりながら、ナットさんが慌てはふためいている。俺の声は届いていなかったんだろうか?
咳き込みながらジャリジャリするつばを吐き出して、もう一度声を張り上げようとした時。
落雷が木を割くような物凄い軋む音がして、俺の頭の上がポッカリと開いた。
木が折れた。
いや、折られたのだ。
降り注ぐ木片と眩しい光の中、巨大な坊主頭が俺を見下ろしていた。
顔のわりに小さな緑の目、モアイ像のように彫りの深い立派な鼻、象みたいな灰色がかった肌をしている。麻縄を編んで作ったような粗末な服の上に何かの毛皮のチョッキを着ていた。大きな歯を見せて、にやっと笑う。
光のなか現れたトロルの顔は、恐怖を持って瞬時に俺の目に焼き付いた。
あまりの状況に声一つ出せない。
しかし、次の瞬間。大きな掌が影を落としながら降りてきて、俺をキングコングのヒロインのようにつかみ上げた。
ギュッと体を締め付けられて肺の息まで搾り取られる。
「うえぇ、潰れるぅ」
思わずあげた声に反応したのか、巨大な指が僅かに緩んで俺は息を吸い込むことが出来た。心臓が早鐘を打っている。恐ろしさで思うように体が動かない。それでも逃げなければと身をよじり、体を掴んだ手を解こうと抵抗する。体に巻きついたトロルの指を拳で叩くも、塩ビの床を叩いているような感じだ。俺の手が痛いだけで、相手には何のダメージも与えられない。
剣をテントに置いてきたことが悔やまれる。
突然、ガツンと何かで頭を強打して耳鳴りがした。ツーンと頭の中が真空になったような感覚がして、目覚める前の夢のように現実が遠い。
どこか離れた場所で、ナットさんが叫び声をあげたような気がする。
なんだか、分からなくなった。
***
誰かが言い争いをしている。
たくさんの人が一度に喋っているのか煩いくらいだ。
その中でもナットさんの声が頭に響く。
なんだろう? 意識がはっきりとしてくるにつれ頭が痛い。
「あの、ちょっと静かに……頭痛い」
万華鏡を覗いたように緑の枝に囲まれた青い空が見える。
すごく綺麗だけど、俺は何で寝ころびながら空を見ているんだっけ?
「よかった。気が付いたみたいだよ」
「マサル。大丈夫?」
その綺麗な空を背景に、俺を見下ろすように二つの顔が現れる。
ひとつは額に包帯を巻いたナットさん。目の周りの毛が湿ってもしゃもしゃしている。あれ? 包帯の範囲が増えてない?
もう一つは安心するような穏やかな笑みを浮かべたコルージャさんだった。
頭がもやもやする。
身を起こすと額から濡れた布が落ちてきた。
「落ちてきた枝で頭を打ったんだよ。気を失うほど打ったから急に動かない方がいいよ」
コルージャさんに労わられ、ナットさんに手を貸してもらいながら座る。
やわらかな苔の上に座りなおした俺の眼に、ビッグな女の子の顔が映った。
「ホントごめんね。うちの父ちゃん慌ててたもんだから強く握り過ぎちゃったみたい」
緑の瞳、灰色の肌、ちょっとぽっちゃりした体系のグラマラスな少女は、枯草色の長い髪を一つに編み下げにして、めんこい顔で笑っている。
--トロル!?
俺はもう一度後ろへ倒れることになった。
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