第51話 指定席

「おい坂田、ちょっと聞け、ビッグニュース!」

 仕事帰りにジャズクラブに顔を出した坂田を、斉木が凄まじい勢いで出迎えた。

「なになになに? どうした?」

「来週、アメリカからスカウトマンが来るらしいんだよ。ここがちょっとした話題になってて、そんで最近入った若手ミュージシャン……って俺な、の噂を聞きつけて来るとかなんとかかんとか」

「え、マジ? すげ!」

 ただでさえ目鼻立ちのはっきりした顔の坂田が、ますます目をまん丸くする。こうなると本当にキュートな女の子にしか見えない。

「だろ! あそこと組めば俺のソロアルバムとかアメリカから出ちゃうかもしんねーぞ?」

「え、ちょっとそれ、ほんとに凄くない? 一気に有名人?」

「あ……そしたら、俺がここに居るのバレちゃうか?」

「でもアルバムだけならそれ以外の事は個人情報として管理して貰えばいいかも。契約するときにきっちりそこら辺詰めておけば……」

 真顔で返す坂田を見て、腹を抱えて斉木が笑いだす。

「って、まだスカウトマンも来てないうちに何言ってんだろうな、俺ら。こういうのを日本では『捕らぬ狸の皮算用』というんですよ~、ってか?」

「全くだ。で? どの曲で勝負仕掛けるの?」

「それはバンドマンと決める。彼らも俺の事は可愛がってくれてるから、いい曲を選んでくれると思うよ」

「あっという間に世界の大舞台だな。日本をとっとと出て良かったかもしれないね」

「ああ、そうかもな」

 そう言いながらも、二人の脳裏には水谷の顔が浮かぶ。あいつは今頃どうしているんだろう。二人の為にとても親身になってくれた水谷。その水谷にメール一本で別れを告げて出てきてしまった。

 ナンプレの画像を見せて「今すぐ帰れ、先生には俺から言っといてやる」と言ったあの日の水谷の真剣な顔を思い出して、斉木は胸が締め付けられる。

 坂田も、生徒会室で杉本の腕を掴んで凄んだ水谷の、あの下から睨み上げる目を思い出す。

 二人ともお互いが水谷の事を思い出しているのを察知して、言葉が途切れる。

 そこにちょうど斉木にリハの声がかかる。

「今日もたっぷり目で犯してやっからな」

「はいはい、行ってらっしゃい」

「あんだよそれー。後悔すんなよ?」

 短いキスを交わして斉木はステージの方に回る。

 坂田は漸くカバンを置き、着ていたコートを脱ぐ。スタッフにコートを預けると、いつものように指定席になったカウンターの端、ステージに一番近い席に座る。常連客は誰もそこに座らない。そこが坂田の席で定着してしまったからだ。最初に斉木がカタコトのフランス語で坂田を紹介したあの日から、その席は指定席として暗黙の了解となっており、店のスタッフも他の客をそこには座らせないのだ。

 斉木はそのすぐ側のピアノを弾いているか、若しくはサックスを吹いているときは客席に降りて坂田の横で吹いていることもある。そんな仲睦まじい二人を、常連客達は優しい目で見つめ、応援してくれるのだ。

 この日もそんないつもと同じ、幸せな日常としての時間が過ぎていく予定だった。そして実際、いつもと変わらぬ時間が過ぎていた。……九時半までは。

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