第7話 ポジション

 今日はなかなか斉木が現れない。きっと山根の友達の誰かにコクられてるんだろう。斉木は毎日必ず誰かしらにコクられてるんだろうな、と坂田は他人事のように思う。自分には縁の無い話だ。何しろ坂田は斉木と違って背は低いし、貧弱だし、女顔だし、何より目立ってない。存在を知られてない可能性さえ疑っている。

 その斉木が溜息をつきながらやっと現れた。

「誰にコクられた?」

「んー、まあ、誰でもいーべ」

「まあね」

 斉木は否定しない。やはりコクられて来たらしい。坂田は特に気にせず、マウスピースにリードを付けてリガチュアを通す。

「あー待て待て、リガチュア、反対だし」

「え? あ、ほんとだ」

「ぶっ壊す気かよ。リガチュアはヤワなんだからよー。女扱うように扱えよ」

「女の方が強いし」

 ブツブツ言いながらリガチュアを締める坂田に、スティックを使って手首のストレッチをしながら斉木が小声で訊く。

「坂田、彼女居ねーの?」

「居る訳ねーじゃん。居たら斉木とつるんでねーし」

「ふーん……」

 斉木が目を逸らして黙り込む。坂田は急に不安になる。

「何?」

「いや、さっきさ……」

「なんだよ」

「山根に呼び出されたんだよ」

「は? 山根?」

 なんだかんだ言って、結局、山根が斉木の事好きだったんじゃないか、と坂田は心の中で苦笑する。が、斉木は深刻そうな顔で続ける。

「それがさ。坂田は彼女居るのかって聞かれた」

「はああああ? 昼休みに斉木に彼女居るかって聞きに来たんだよあいつ」

「それ、お前に脈アリかどうか探りに来たんだよ。山根、お前の事が好きだって。そんで坂田に直接言ったけど冗談としか受け取ってくれないって俺に言って来たんだけどさ」

「まあ、確かにそんな事は言ってたけど」

 斉木はクスッと笑うと大袈裟に肩を竦めて見せる。

「やっぱ冗談だと思ってたんだ。あーあ、山根可哀想に」

「そんな事言われてもなぁ……」

「お前、山根のことどう思ってんの?」

「別に、どうって、特にどうも思ってない」

 坂田はさっき山根をほんのちょっとだけ可愛いと思ったことは口にせず、マウスピースにネックを差し込む。

「好きな奴でもいるの?」

 一瞬ドキリとした坂田は、それを斉木に気取られないように目を逸らす。

「居ないよ」

「まさかお前ホモ?」

「アホか」

「だよな。まあ、明日また何か言われるかもしんねーから覚悟しとけ」

「えー、めんどくせ」

「俺が彼氏って事にしといてやろーか?」

「ますますめんどくせ」

 ブツブツ言いながらストラップを首にかけ、本体にネックを付ける。滑りが悪い。

 坂田が悪戦苦闘しているのを見て、斉木がスティックケースから蝋燭ろうそくを出す。

「これ使えよ」

「何、誕生日?」

「バカ、ネックと本体のジョイント部に軽く塗るんだよ」

 斉木に言われた通りにすると、あっさりネックが本体に収まる。

「おー、ミラクル……」

「それ、やるよ。誕生日にも使える」

「誕生日、当分来ないし」

「じゃ、SMにでも使え」

「そーするわ」

 斉木が苦笑いすると、坂田は楽器をストラップに下げた。大体、何故斉木はスティックケースに蝋燭など入れているのか、本当に斉木のやる事は坂田には理解不能だ。

「重っ」

「お前、チビなんだからアルトにしときゃいいのに、なんでテナーにしたんだよ」

「るっさいな、いーんだよ、これで。女子だってバリサク吹いてんじゃん」

「右手、一個ずつ指置くキーがズレてるよ」

「えー?」

 坂田は慌てて右手のポジションを確認する。確かに一つずつ綺麗にずれている。

「体の感覚で覚えろよ。指掛けがあんだろ? そこに先ず親指をかけて、あとはそこからのポジションだよ」

 なるほど……と坂田は思う。斉木は教え方も上手い。坂田が一発で理解できるような説明の仕方だ。

 斉木が坂田の背後に周る。耳元で「おい」と声をかけられて坂田はゾクリとする。

「ちっと、右手放してみろ」

 坂田が素直に放すと、斉木が後ろから楽器を持つ。何をするのかと思えば、斉木が指掛けに右手の親指を掛け、親指一本で楽器を持ち上げる。この楽器は三・五キロの重さがある。コイツはこれを親指の甲一本で持ち上げんのか、と坂田は驚く。

「こうやってさ、右手の親指だけで先ず持つんだよ。そのまま全部の指を自然に置くと、ほら、自動的にここに収まるんだよ」

 耳元にダイレクトに伝わる低い声。坂田には無い音程である。坂田は何故か鼓動が速くなるのを感じながら、その理由を理解できずにいる。

「やってみ?」

 斉木が坂田から離れる。息を詰めていた坂田は、何故かホッとしながら楽器を持ち直した。

 その日坂田は、帰るまで斉木の顔をまともに見ることができなかった。

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