第43話 グルダ

「フランスかイタリア辺りなら何とかなる」

 家に帰るなり坂田が意味不明なことを言い出した。

「何が?」

「僕がなんとか言葉を話せるって事だよ」

「何お前、三カ国語話せんの?」

「英語入れて四カ国」

「すげ……」

「向こう着いたらアドレス変えるよ。山根や水谷とも連絡取れないようにする。父さんの弁護士には振込銀行の変更をして貰わないといけなくなるな。明日パスポート取りに行って来る」

「ちょ……ちょ、ちょ、ちょっと待て。何の話してんだよ?」

 コーヒーを二つ持ってキッチンから戻ってきた斉木が慌てる。

「さっき言っただろ? みんなの前から姿を消すんだ。僕という存在を忘れて貰う」

「は? それでどうしてパスポート?」

「日本を出るからに決まってるだろ?」

 相変わらず平然とスマートフォンで検索している坂田が、当たり前のように切り返す。

「そこまでしなくても」

「そこまでしないとダメなんだよ。僕は甘かった。長野から出てきて、こんな都会なら誰も僕の事を知ってる人なんか居ないと思ってた 。ところがどうだ? 隣のクラスにいきなり居たじゃないか、水谷が」

「でもあいつは俺たちの力になってくれてる」

 斉木が体ごと坂田の方に向き直る。が、坂田は微動だにしない。

「その分、水谷に余計な心配かけて、迷惑かけてんだよ。山根にも知られた。あいつもいい奴だから心配するだろう。しかもあっさり顔に出る。杉本だって知ってるんだ、そのうちに少しずつ知れて行って、みんなの知るところになる。僕が性同一性障害だってことも、その癖に同性愛者で、お前の子供を妊娠して、挙句中絶までしてるってことも、全部な。もう僕の居場所なんかどこにもない。日本を出るんだ。海外でなら僕はきっと日本語教師として雇って貰える、その自信はある」

「待て待て待て、わかった。わかったよ。ちょっと待て。俺にも考えさせてくれ」

「何をだよ」

「だからちょっと待て。何を考えるか考えさせろ。まずコーヒー飲ませろ。てかお前も飲め」

 斉木は適当にピアノのCDを出してくる。フリードリヒ・グルダのアルバムだった。このお爺ちゃんはクラシックからジャズまで何でも弾きこなす上に、作曲までこなす。バリトンサックスまで吹く人だという事はあまり知られていない。

 何の皮肉か一曲目は『For Rico』、息子の為に書いた曲である。中間部に長い長いアドリブがあり、楽器によってその部分は大きく変わる。

 二人でコーヒーを啜りながらグルダのピアノを聴く。興奮気味だった坂田が少しずつ落ち着いていくのが判る。

「な、お前一人でどっか行っちゃったら、俺どうすんのよ?」

「斉木はプロのミュージシャンだ。このままちゃんと勉強して高校出て大学も出て、ミュージシャンとして活躍すればいい。海外公演もあるだろう? 僕はこっそり斉木の演奏を聴きに行くよ」

 落ち着き払った坂田は、さも当たり前といった感じで返す。が、斉木の質問と坂田の返答が完全にズレていることに気づいてはいない。

「違うよ。お前は俺にとって、なんていうか生活の一部って言うか、寧ろ俺の一部って言うか。お前は俺の子供をほんの僅かな間でも身体の中で育ててくれたじゃん。俺が子供を諦めたのは、お前が大事だったからだろ。お前と一緒に居られることの方を選んだからじゃん。それなのに俺に一人で生きろって? 無茶言うなよ」

「斉木には水谷もいるし山根もいる。大丈夫だよ、一人じゃない。だけど僕はここには居られないんだ。もう決めた」

 斉木が頭を抱えて髪を搔き毟る。眉間に皺を寄せて暫く頭の上で手を組んでいたが、大きなため息とともに両手を下ろした。

「じゃあ、俺も一緒に行く。それならいいか?」

「何言ってんだよ。学校どうすんだ」

「中退する」

「バカ、高校くらい出ろ」

「お前が言うな。お前だって中退すんだろ」

「僕は今すぐ受験したって大学受かるよ」

 ――そうだった、コイツ、半端なく頭良いんだった……と今更斉木は思い出す。坂田は入学した時既に数Ⅲが余裕で解けていた。

「斉木、お前の事は一生忘れない。僕が愛した人は生涯で斉木一人だ」

「何だよ、十六年しか生きてねー癖に、今にも死ぬような言い方すんな」

「この先死ぬまで他の奴を好きにならないんだから、宣言くらいさせろ」

「そうじゃなくて!」

 思わず斉木は坂田の手首を掴む。指先に手首の傷跡の感触が伝わる。

「どうして俺と別れようとする?」

「何度も言わせるな」

「それは俺の台詞だ、俺はお前なしで生きられない」

「歯の浮くようなセリフ言ってんじゃねーよ」

「バカ野郎、本気で言ってんだ!」

「うるせ……」

 坂田の唇が斉木のそれに塞がれる。

 グルダのピアノが部屋の中の音を支配する。曲はモーツァルトになっている。グルダのモーツァルトは最高だ。勿論ベートーヴェンもバッハも素晴らしいが、モーツァルトを弾いているときのグルダは、モーツァルト本人が降りてきているんじゃないかという錯覚にさえ陥る事がある。

 斉木はゆっくり唇を離すと、モーツァルトの邪魔にならないように静かに囁いた。

「なあ、俺も連れてってくれよ。一緒に暮らそう。俺と、お前で」

「……後悔しないか?」

「ここで別れたら一生後悔する」

 斉木の真っ黒な瞳が、坂田のやや緑がかって見えるグレイの瞳とぶつかる。

 しばらくそのまま見つめ合っていたが、坂田の方がゆっくりと鼻から息を吐き出した。

「わかった。友達を裏切ることになるけど……いいか?」

「仕方ない」

 二人はコーヒーを飲みながら、グルダの続きを聴いた。

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