第42話 遺残

 それからというもの、杉本は坂田や斉木と目が合うと慌てて目を逸らすようになった。

 だが、その分他の連中と何やら小声で話すのをよく見かけるようになった。それは文化祭の話かもしれないし、ラグビー部の試合についての話かもしれなかった。勿論二学期の中間テストの事かも知れず、ゲームの話かも知れなかった。だが杉本が誰かと話している、それだけで坂田は疑心暗鬼に苛まれた。

 最初のうちは、杉本だけだった。だが、二日三日と経つにつれ、杉本が普段仲良くしている連中が数人集まって話しているだけで自分の事を言われているような錯覚に陥っていった。

 坂田の気持ちもわからないではない。本来の性別が知られたという事は、それ以外の事も芋蔓式にどこかから漏れる可能性も出てきたのだ。中絶したことが学校に知れれば、家に連絡されてしまうかもしれない。坂田の不安は斉木にも伝染していった。

 そんな中、坂田が「いつもと違う出血がある」と言い出した。心配になった斉木は坂田をすぐに中絶した病院に連れて行った。

 そこで聞かされたのは『子宮内遺残』という言葉だった。簡単に言うと、中絶手術をする際に組織の一部を子宮内に取り残してしまう事だ。言葉はあまり良くないが、中絶というのは医師が手探りで子宮の中を掻き出す行為でもある。稀にこれから胎盤として成長する部分などを取り残すこともあるのだ。そうするといつまでも出血が止まらない事がある。坂田はまさに運悪くこれに当たってしまったのだ。

「これからまたこいつは痛い思いをするんですか?」

 医師に食って掛かろうとする斉木に、坂田は「大丈夫だよ、心配するな」と穏やかな笑顔を向ける。どこまでも苦しい思いをするのはこいつだけなのか、と斉木は自分が何もできない事に苛立ちを覚える。

「斉木、身体の痛みなんて大したものじゃないよ。心の痛みに比べたら、全く比較の対象にさえならない」

 この言葉を笑顔で言ってのける坂田に、斉木は返す言葉を失うのだ。そしてこの言葉はすぐに現実のものとして襲い掛かってくることになる。

 待合室で坂田の処置が終わるのを待っていた斉木の視界に、見慣れた姿が飛び込んできたのだ。

「斉木……君?」

「山根!」

 まさかの元気印が、アライグマのぶら下がった黄緑のリュックを背負ってそこに立っていたのである。

「何やってんの、こんなとこで」

「山根こそ」

「そーゆーこと女子に聞くか? てか生理不順酷いから。あんた男子の癖になんでこんなとこに居んのよ? まさか誰か妊娠させたの?」

「おま……」

 その瞬間、処置室の扉が開いて、中から運悪く車椅子に乗せられた坂田が出てきた。思わず斉木が立ち上がる。

「ああ、坂田さんのパートナーの方ね、ちょっと貧血が酷くてね。点滴してから帰って貰うからもうちょっと待ってね」

「はい」

「後でまた点滴の様子見に来るから」

 看護師は坂田をその場に車椅子ごと置いて戻ってしまう。

 坂田が山根を見て愕然としている。勿論だが山根も呆然としながら「坂田く……」まで言ってそこで言葉を止める。

 三人の間に気まずい沈黙が訪れる。

「あの……あたし見なかったことにするから。大丈夫だから」

「いいよ、山根。今まで黙っててごめん。僕は身体だけ女なんだよ。心は男だけどね」

「そんなのどうでもいいよ。あたしは坂田君、好きだよ。優しいし。気が利くし。頭良いし。っていうか、そういうの関係なく全部好きだよ」

 間髪置かずに山根がフォローする。実際そう思っているのだからフォローとは言わないのかもしれない。

「あの……ごめん、あたし良く知らないんだけど、性同一性障害……ってやつかな?」

「うん、それ」

「そっか」

 また沈黙。

 周りにはお腹の大きいお母さんが数人いるくらいで、運良くあまり人がいない。

「心は男子のままで、でも斉木君の事、好きになっちゃったんだ?」

「そういう事。性同一性障害の上に同性愛者」

「いいなぁ」

「え?」

 これには斉木も驚く。

「だって、あたし、坂田君が女子だってわかっても、やっぱ坂田君のこと好きだもん。大好きだもん。斉木君、羨ましいよ」

「マジかよ」

「あのさ、あたし……協力できることがあればするから。何でも言って。絶対秘密にしとくから。つまりその……坂田君、斉木君の子供を妊娠しちゃったってことだよね?」

「堕ろしたんだよ」

「え?」

 山根がただでさえ大きな目をますます大きく見開く。

「十日ほど前に。まだ僕の中に何かが残ってて――胎盤になる前のモノって言ってたから胎嚢だとは思うけど。それのせいで出血が止まらなくて、それで今日来たんだ」

 山根の視線が一瞬泳ぐが、直ぐにまっすぐ坂田を見返す。

「そうだったの……。誰にも相談できなくて大変だったでしょ。女の身体の事なんて、斉木君には分からないし……。あたしで良かったらいくらでも相談乗るから。愚痴でも何でも遠慮しないで言って」

「うん、ありがとう」

 坂田が笑顔で答えると、そこにちょうど山根を呼ぶ声がした。

「山根さん、三番お入りください」

「はーい! じゃ、あたし行くね。また後で会えたらいいけど、一応ここでバイバイ」

「うん。お大事に」

 山根は斉木と坂田に小さく手を振って、大きく『3』と書かれた部屋に入って行った。

 その背中を見送りながら手を振っていた坂田は、扉を見つめたままボソッと呟いた。

「学校辞める。このまま僕はみんなの前から姿を消すことにする」

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