第44話 渡航

 翌日、二人は初めて無断欠席した。斉木はしょっちゅう海外公演などでウロウロしているからパスポートは持っているが、坂田は持っていないため申請しなければならない。やむを得ず父親の弁護士に連絡して、修学旅行でヨーロッパに行くと言って書類を準備させた。

 斉木は……なんというか滅茶苦茶である。斉木の父親がまず滅茶苦茶な人なのでそれを斉木自身が疑問視する事も無かったのだが。

「日本じゃ全然話にならんからちょっと海外でジャズの修業をしたい」

 そう連絡しただけで、ミュージシャンをやっている父親は「いいんじゃね?」とあっさり承諾したのだ。こんな事だから斉木の両親は離婚する羽目になったわけだが、斉木にしてみれば父の生き方の方が余程自分にも合っているように思えた。

 あまつさえ彼の父は「パリにいいジャズクラブがある、今ちょうどパリにいるから紹介してやる」とまで言い出した。二人はそれに甘えることにして、一緒にフランスへの渡航を決めた。

 斉木はジャズクラブの雇われミュージシャンとして働き、坂田は手近な外国語学校で日本語を教える。これで二人が食べていく分くらいはどうにでもなりそうだった。

 斉木の父はパリにたくさんの友人を持っていて、その中でも特に頼りになる女性がいた。マノンというそのご婦人は、坂田を四人、いや五人くらい束にしたようなおばさんで、見た目も太っ腹なら中身も太っ腹だ。彼女は斉木が小さい頃から何度も会った事があり、子供を持たない彼女は幼い斉木を我が子のように可愛がってくれていた。

 そのマノンがいくつか持っているアパルトマンの一つを安く提供してくれると言う。それもジャズクラブにほど近い場所である。贅沢を言っていられない二人にとって、信じ難いほどの贅沢な話だ。日本に居ながらにしてあっさりと家が決まってしまったのだ。

 ジャズクラブの仕事もオーディションさえ受かればすぐに仕事が入るらしい。サックスとピアノをプロ並みにこなし、ドラムとベースも代役としてすぐに入れるほどの技量を持つ斉木の事だ。もう、仕事も決まったようなものだろう。

 二人の前途は思いのほか明るいのではないかと思われた。



 そんな事務作業に忙殺されていると、不意に現実に引き戻されるような着信音が響いた。水谷から斉木にメールが入ったのだ。

『おい、今日どうしたんだ? 学校に連絡しなかったのか?』

『ああ、ごめん。あのな、怒らないで聞いてほしいんだけど、つっても無理か。昨日坂田の中絶の後処理で病院に行ったんだよ。そしたらさ、山根に遭遇しちゃったんだわ。三人鉢合わせになっちゃって、簡単に言うとバレたんだわ。それで、杉本にも知られたし、もう時間の問題だから、俺ら学校辞めることにしたんだ。水谷には散々世話になったし、これ以上迷惑かけらんねーから、近いうちに引っ越すことにした。まだ引っ越し先は決めてないけど』

 少々の嘘を混ぜて水谷へ返信する。すぐに返信が来る。

『引っ越し先と日程決まったら教えろ』

『了解』

 メールを返信しながら、斉木は良心が痛む。引っ越し先を教えるつもりはない。アドレスも電話番号も変更する。あんなに親身になってくれた水谷だが、ここで完全に切らないと必ずどこかから漏れてしまう。

 坂田は素早かった。全く微塵の躊躇も無くアドレスを変更し、水谷も山根も連絡できないようにしてしまった。今、坂田のスマートフォンに登録してあるのは、父の弁護士と、斉木だけになっていた。

 このあたりの冷酷さというか非情さというか、まるで情け容赦ない行動に斉木は少々驚くこともあったが、坂田を取り巻く環境を考えればある程度納得できる部分でもあった。

 そして二人は引っ越しの日を迎えることになる。

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