第36話 ナンプレ ※

 九月も二週目に入り、暴力的でさえあった夏の太陽が幾分優しく感じられるようになって来た頃に、坂田は中絶手術を受けた。

 斉木が考えていたようなものとは全く異なり、驚くほど呆気なく終わってしまった。

 たったの十五分。それまでずっと暖かい坂田の身体の中で、大切に守られて育まれてきた小さな命。それがたったの十五分の『処置』で短い生涯を閉じる。こんなにも呆気なく終わった事が、却って斉木に罪悪感を感じさせた。

 『処置』と言う言葉も嫌だった。まだヒトの形をしていないかもしれない、だけど人間であることには変わりない。育ててやることはできなかったけど、俺の子供だ。『処置』なんて言葉を使われたくない。

 斉木は赤ちゃんを見せて貰えるか聞いてみた。だが、返ってきた返事は「ただの血の塊ですが、見ますか」だった。それを聞いて斉木は急に怖くなって断った。

 十五分で? ただの血の塊になるのか? 小さくても人間だぞ、そんな言い方があるか。恐怖と怒りに脚が震えて立っていられなくなった。

 坂田は全部知っているんだ。俺に相談せずに一人で検査薬を使い、一人で病院に行き、全部一人で背負って行こうとしてたんだ。そしてまた、これから術後の痛みに耐え、ホルモンバランスの変化に耐えなければならないのだ。

 何と強いのだろう。ここまで強くなるのに、どれだけの試練を乗り越えてきたのだろう。斉木は坂田の苦しみを考えただけで涙が零れてきた。それでも尚、斉木が考え得ることを遥かに上回る苦痛に、これから耐えなければならないのだろう。

 その坂田がいつまで経っても目を覚まさない。五時間くらいで目が覚めるからと言ってなかったか?

 斉木は一向に目を覚ます気配のない坂田が心配で、「こいつ大丈夫ですか?」と何度も何度も看護師を捕まえては訊いていた。六回目に看護師を捕まえたところでちょうど坂田が目を覚まし、「あなたがしっかり支えてあげないと」とたしなめられてしまった。

 とにかく嬉しかった。坂田が目を覚ましてくれたことが嬉しくて、斉木には他の事などどうでも良かった。


 ぼーっとしたまま斉木にタクシーに押し込まれて家に帰ると、坂田はすぐにベッドに横になった。何もしていないのに、途轍もない疲労感に襲われて起きていられない。そのまま翌朝まで泥のように眠ってしまった。

 斉木はそんな坂田の寝顔を見守る事しかできないのが歯痒くて仕方ない。

「お前どんだけ寝るんだよ、寂しいじゃん」

「ごめんな、坂田。ごめんな」

「坂田……」

 静かなベッドルームに、斉木の声だけが断続的に響く。

 坂田の髪を撫でながら暫くベッドサイドに居た斉木も、静かに一人リヴィングに引っ込んでいった。


 間接照明の灯りにアロカシアの影が揺れる。

 ピアノとベースに乗せた甘いサックス。スネアをオフにしたまま正確に五拍子を刻む、落ち着いたドラム。

 ポール・デズモンド、テイク・ファイヴ。ドラムソロの途中でスネアをオンにする、この瞬間がたまらなく興奮するのだ、いつもの斉木なら。

 こうして一人でソファに座って音楽を聴いているのが途轍もなく久しぶりに感じる。坂田に出会うまではこれが当たり前だったのに、こうなると一人の部屋がとても広く感じるのだ。ソファもこんなに大きかったか。俺、今まで一人の時って一体何してたんだろうな?

 ふと思い出して水谷から預かった本をカバンの中から出してくる。『ナンバープレイス』何やら数理パズルらしいが斉木は中身をチラッと見ただけでパタンと閉じてしまう。明らかに文系の斉木には向いていない。こういうのを坂田や水谷は面白がってやるのだろう。

 しかし、水谷の気の回し方にはつくづく頭が下がる。水谷曰く、「直後はきっと後悔したり子供に対しての懺悔の気持ちがあったり、本当にこれで良かったのかと余計な事を考えたりする筈だ、そうなると最悪、良からぬことを考える可能性も出てくる、だから一人でボーっとする時間を極力減らさないとダメだ」とこういう事らしい。

 そして、坂田の性格上、読書や勉強のように一人でやる事よりも、誰かとやっていた方がいい筈だという事から、このナンバープレイスの本を持って来たのだ。

 水谷の凄いところはそれだけではない。全く同じ本を二冊買って、自分も同時進行でやっているのだ。そして坂田と同じ話題を共有しようとしている、これには斉木は完全に脱帽だった。

 狙い通りと言うべきか、翌朝目覚めた坂田にそれを見せてやると、久しぶりに僅かに笑顔が戻った。

「俺が学校に行っている間は坂田は何もすることがないだろうから、これやってろって水谷からお前に差し入れだってさ。自分もやってるからわからんところは坂田に訊くって言ってたよ」

「水谷が? あいつ、ほんとに僕の好みをわかってるなぁ」

「わーるかったな、俺が判ってやんなくて」

「全くだ、なんで斉木は文系なんだ。あ、体育会系か」

「けっ、理系の脳味噌が何考えてるかなんて知らねーし」

 わざと膨れて見せながらも、斉木は坂田に軽くキスをする。

「帰りにチョコファッション買ってきてやっから、ナンプレやりながらいい子にして待っとけよ」

「チュロスもよろしく」

「行って来るわ」

「ん、行ってらっしゃい」

 明るく送り出してくれた坂田を見て少しだけ安心した斉木は、この後自分の甘さにのたうつことになる。

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