第37話 ここは6だ ※
二限の終わりに斉木は坂田にメールしてみた。メールはすぐに返ってきた。
『今ナンプレしてたよ。水谷のヤツ、わざと超難問持って来たんだね。あいつも解けなくて悩んでるんじゃないか。こっちは大丈夫だよ、ナンプレしてっから。それより三限の数学寝てんじゃねーぞ』
水谷が言うほど深刻でもなさそうだ。斉木は少し安心して三限からの授業を受けた。
ところが昼休みに水谷が血相を変えてやってきた。
「なあ、さっき四限の始まる前に坂田にメール送ったんだけどさ、このナンプレのここの枠が判らんつって写真送ったら、坂田からたった今返信来たんだけど……ちょっとこれ見て」
水谷がスマホをこちらに傾けると、ナンプレの四角い枠がお行儀よく並んだ写真が見える。中には坂田の字で数字がたくさん書き込まれていたが、画面の隅に何かの染みが見えた。
「何ここ?」
「これ……血、じゃないよな?」
斉木の心臓が跳ね上がった。
「あいつ、過去にリストカットしてる」
「お前今すぐ帰れ、先生には体調が悪くなったから帰ったって言っといてやる」
「悪い、頼む」
飛び出していく斉木を見送りながら、水谷は坂田に返信を打つ。
『でも、ここに4が入るならそのブロックには4が二つ入る事にならないか? そうすると隣の列に9が二つ入っちゃうけどな』
打ちながら水谷は頭を抱える。
――あの坂田がこんな初心者みたいな単純ミスをするわけがないだろう!
その坂田から返信が来る。
『ごめん、3と8を見間違えた。ここは6だ』
水谷が机を思い切りバンと叩く。周りの生徒が驚いた様子で水谷を見る。
「くそっ、3も6も8も埋まってんだよ! 何をわけのわかんねー事言ってんだ!」
水谷はスマホを乱暴にポケットに突っ込むと、斉木のクラスを出た。
斉木は家に着くと、鍵もかけずに靴を脱ぎ散らかして入っていった。
「坂田! 俺だ、どこにいる!」
リヴィングには居ない。ベッドルームを覗いてもそれらしき影は見当たらない。スタジオか? スタジオには整然と楽器が並んでいるだけだ。
どこだ? トイレか? バスルーム……バスルーム! 坂田は過去に睡眠薬を飲んでリストカットして風呂に入ったと言っていた。
大股でバスルームに向かう。途中、リヴィングのテーブルの上にナンプレの本が置いてあるのが見える。赤い染みが点々と連なるようにバスルームに続き、途中に彼のスマートフォンが落ちている。
「坂田!」
バスルームのドアを開けると、坂田が床にぺたんと座っていた。
「おかえり。チュロス買ってきた?」
「お前……何やってんの?」
「ナンプレ」
バスタブの中に左手を垂らし、シャワーを当て続けている。これのどこがナンプレなんだ。
斉木はシャワーを止めて坂田の左手を引っ張り上げた。バスルームに血が飛び散る。
「何すんだよ」
「こっちの台詞だバカ野郎!」
坂田を無理やりバスルームから引きずり出そうとすると、「僕に触るな」と言って暴れる。こんな狭いところで暴れまわったら怪我をしてしまうと思った斉木は、咄嗟に坂田を後ろから抱いて拘束した。
だが、今日の坂田は今までの彼とは違った。脚を振り回して全身で暴れまくり、斉木にも押さえつけるのが精一杯だった。このままではリヴィングでも危険だと判断した斉木は、ベッドルームに連れて行き、シャワーに濡れたままの坂田をベッドに押し付けてその上に乗った。
「放せ放せ放せ! うああああああああ!」
喚き散らす坂田の口にブランケットを咥えさせる。早く止血してやりたいのに、それをさせて貰えない。斉木は手首の傷口より上をしっかりと掴み、押さえつけたままの止血を試みる。その間も坂田は力の限り暴れ、喚き散らしている。
「坂田」
まるで聞いていない。狂ったように大声を出して暴れ続ける坂田に、斉木はそれでも声をかけ続ける。
「坂田、頼むから、俺の声聴いて。坂田」
だんだん悲しくなってきた斉木は涙をボロボロと流しながら坂田の上に身体を伏せると、耳元で呟くように言った。
「坂田……愛してる」
急に坂田が喚くのを辞めた。身体から力が抜けていき、暴れていた手足が大人しくなった。ビーズを詰めたぬいぐるみのようにダランと力の抜けた坂田の口元から、そっとブランケットを外してやる。
手首の血は大分止まってきていた。傷はそんなに深くなかったようだ。斉木は呆然と宙を見つめる坂田の手首を消毒して手当てをしてやった。血に汚れた服を着替えさせ、ベッドのシーツを替え、もう一度坂田をベッドに寝かせた。リヴィングからバスルームに向かう血痕を拭き取って、坂田のスマートフォンを拾い上げる。メールの着信が光っている。水谷だ。
『6はもう入ってるよ?』
――水谷、時間を稼いでいてくれたんだ。これ以上坂田がバカなことをしないように。
斉木は坂田のスマートフォンをテーブルに乗せると、バスルームを掃除した。
その後、包丁やナイフ、はさみ、カッターなどの刃物を全部見えないところに片づけた。そこまで終わるのにかなりの時間をかけてしまい、気づいた時には夕方になっていた。
やっと落ち着いてコーヒーを二人分淹れて、それでも坂田には声をかけずに待ってみた。コーヒーの香りに誘われてくるかもしれないと思ったからだ。
来たのは坂田ではなく、水谷からのメールだった。
『どうだ? 一人で大丈夫か?』
斉木は画面を見つめて号泣した。窓から見える空は茜色に染まっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます