第49話 パン・ド・カンパーニュ

 なんのかんのと言いながら一緒に取る朝食は楽しい。マノンが持って来てくれたシャンピニオンのスープも絶品だ。毎日食べても食べ飽きない。

「僕はバゲットの方が好きだな。皮の硬いところがいい」

「え~、俺はカンパーニュの方がいいよ、柔らかくてフワフワだし」

「硬い方が顎が鍛えられて脳が活発に動くんだぞ」

「脳を動かすのは坂田に任せる。俺は柔らかいのが好きなの、カンパーニュの中身とか、お前の身体とか」

「アホか」

 ツッコミを入れつつも、坂田は昨夜の事を思い出す。中絶手術を受けてからは、まだ怖くて斉木とつながる事は避けているが、毎日一つのベッドでお互いを温め合いながら眠りについていることは確かだ。

 パリがこんなに涼しい(寒い!)とは思ってもみなかった坂田は、後になって「そういえば北海道より高緯度だもんなぁ」などと寝惚けたことを言って斉木に笑われていたのだ。

 そして「寒い」と言っては二人でベッドに潜り、仲良く音楽を聴き、お互いを求め、熱に浮かされたように身体を重ねる。

「まだ怖い?」

「……うん、ごめん」

「いいよ、こうしてるだけで俺は幸せだから」

 毎日繰り返される会話。それでも斉木はこうして坂田の柔らかい身体に触れるだけで安心できる。坂田もまたこうして斉木の腕に抱かれるだけで、もう怖いものは何もないと思える。若さ故の思い違い。

「お前の身体、カンパーニュみたい」

「なんだよそれ」

「柔らかい。美味しい」

「変態」

「俺には無い柔らかさだ」

「あるわけねーだろ。でも僕は斉木の身体に嫉妬する」

「なんでよ?」

「男の身体してる……」

「あたりめーだろ」

「僕にはその当たり前が無い」

 ――そうだ、こいつは自分を男だと思ってる。

「バゲットって感じだな」

「人をパン扱いすんな」

「斉木が先に僕をカンパーニュって言ったんだろ?」

「あ、そうだった」

 二人でクスクス笑って軽くキスを交わす。

「これが人に愛されるって事なんだな」

 坂田が何気なく言う言葉が斉木の胸に突き刺さる。

「なあ、お前のお母さん、本当にお前を愛してなかったと思う?」

「うん」

 即答。何の迷いもない。

「お父さんも?」

「憎んでさえいたと思う」

 坂田は長い睫毛を伏せる。

「うちの両親、デキ婚なんだよ」

「え……」

「父さんが当時会社の女の子だった母さんに手を出したんだ。その気も無いくせにさ。それで僕ができた。母さんは父さんの事が好きで結婚を迫ったけど、父さんは僕を堕ろせって言ったらしい」

 斉木がゴクッと唾を飲み込む音が響く。そんな斉木を見て、坂田は安心させようと少しだけ笑顔を作る。

「母さんは怒って会社で言いふらした。女は強いな。父さんは一晩だけの遊びのつもりだった母さんと結婚せざるを得なくなった。だけど、母さんも結婚することで父さんに復讐するつもりだったから、結婚生活なんて全く幸せなものではなくて、寧ろお互いの恨みを増幅させる効果しかなくて、そうこうしているうちに僕が生まれてしまった。母さんは後悔したんだろう。こんなことでこんなつまらない男と結婚して、こんなつまらない男の子供を産んでしまったんだから。それで益々父さんへの腹いせに、わざとらしいくらい僕を可愛がった。本当に僕を可愛いと思ってたわけじゃない、父さんへの嫌がらせだよ。父さんを家庭内で孤立させるためだったんだ」

 ――そんな馬鹿な事があるか? 相手憎しで子供を産み、嫌がらせに可愛がる? そんな事が何年も続けられるわけがない。

 斉木は心に沸き起こった言葉を今はとりあえず呑み込んだ。

「母さんは必要以上に僕を可愛がったよ。周りの女の子の親たちが習わせていたことは一通り僕にやらせた。だからやりたくも無いピアノやバレエ、お習字、そんな事ばかりで僕は自分のやりたいことなんか何一つやらせて貰えなかった。そんな中で僕は将棋に出会った。母さんは『そんな男の子がやるような事』と言って反対したけど、小学校に上がったばかりの時に近所の中学生のお兄ちゃんを負かしたのを見て将棋だけは許してくれたんだ。でもそれだって自分の虚栄心を満たす為でしかなかった。そんな母さんを見て父さんは家にあまり寄り付かなくなった」

「まさか」

「そう、浮気したんだよ。それまでにも何度だって浮気はしてた。根っからの女好きだし、元々母さんの事が好きで結婚したわけじゃないからね。母さんが気付かなかっただけだ。僕は知ってたけど知らんぷりしてた。だけど何がきっかけかわからないね、遂にバレちゃって、母さんは怒り狂ったんだ。人をバカにするのもいい加減にしろって。あんたが言うなよって僕は思ったけど。それから僕への干渉がエスカレートした。あからさまに父さんを悪し様に言って『優弥ゆみはあんなろくでなしに騙されるんじゃない』『あんな男に引っかかって人生棒に振るな』って。僕の方もその頃思春期が来て、身体も女になって、生理も来て、そこへ来て修学旅行のストレスなんかも重なって、それで二人を前にしてカミングアウトした。父さんは明け透けに『だから堕ろせと言ったのに』って言ったんだよ、僕の前でね。母さんは『認めない』って叫び続けて、ああ、人間ってこうやって発狂するんだ、って僕は見てて思った」

 ――あり得ない。それが血を分けた子に対して親が言う言葉なのか?

 斉木は坂田にかける言葉が思いつかず、ただ黙っているしかなかった。

「な、本当に愛されてなかっただろ? でも今は違う。斉木に愛されて、マノンに愛されて、生徒たちに愛されて、斉木のピアノを聴いて、斉木と一緒のベッドで寝て、翌朝は斉木と一緒にバゲットを齧りながら温かいスープが飲める。やっと幸せを手に入れた。絶対に失いたくない」

 何という過酷な体験だろうか。きっと見た目には誰からも幸せに見えただろう、母親に溺愛されて、成績も良く、将棋界では天才扱いされ、何不自由なく育った愛くるしい女の子。でもその実、心の中はズタズタに切り裂かれ、どこにも救いが無く、頼る相手も見つからないままに、全てを否定され続けてきたのだ。

 ――こいつは絶対に俺が守ってやる。何が何でも守り通してやる。

 斉木は言葉が見つからないまま坂田を抱き締めた。あまりに強く抱き締めるものだから、坂田が胸元で文句を言っている。

「骨が折れるだろ。何やってんだよ。息できねー」

「あ、ごめん」

「殺す気か」

「明日も……」

「ん?」

「カンパーニュ食べような」

「僕はバゲットがいい」

 そして、今日も彼らはシャンピニオンのスープでカンパーニュを食べる。

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