第18話 写真

「これ、見てくれる?」

 坂田はカバンの中からスマートフォンを取り出した。

「この子」

 斉木が見せられたスマートフォンの画面には、目鼻立ちのはっきりした華奢な女の子が写っていた。セミロングの髪を二つに分けてゴムで結わえたその少女は儚げな笑顔を見せてこちらに微笑んでいる。

「何、坂田の彼女? メチャメチャ可愛いじゃん。どうしたの?」

「別れてきた」

「向こうに置いてきたの?」

「うん、置いてきた」

「今どうしてんの?」

「ここにいる」

「……は?」

 ――意味が判らない。置いて来たんじゃないのか。

「これ、僕だよ」

「……はあぁぁぁぁぁ?」

 斉木が驚いて坂田の顔を見る。スマホの画面で微笑む少女と目の前の坂田を何度も見比べる。だが、灯りを落として間接照明だけになった部屋では、スマホの画面がよく見えても実物の坂田の顔がよく見えない。

「え。あ。うっそ。え、マジ? さ……かた?」

 坂田は静かに首を縦に振る。言われてみれば確かに坂田だ。嘘みたいに可愛い。

「女装趣味あったのか?」

「そんな趣味は無いよ」

 坂田が困ったように苦笑いする。

「え、意味が判らん」

「女の僕と決別してきたんだよ」

「ちょ……待て、ますます意味が判らん」

 坂田は鼻から長く息を吐き出して、もう一度顔を上げた。

「僕は女なんだ。Y染色体を持ってない。生物学的にメスなんだよ」

 斉木が狼狽える。言っていることは理解できている、いや、できていない。できているような気はする。どっちなんだ?

「だけど、僕の意識の中では僕はオスなんだ。性同一性障害、知ってる?」

「……ああ、聞いたことはある」

 斉木は愕然としつつも、やっとこれだけ絞り出した。

「僕はずっと小さい頃から、心は男子だったんだよ」

 しかし、スマホの中にいる坂田は完全に女の子だ。しかも結構な美少女だ。

「幼稚園の時にスカートを穿かされるのが嫌だった。とても嫌だった。なんで僕がスカートを穿かなきゃならないのか理解できなかった。僕は男の子なのに赤いランドセルを持たされた、みんな他の男子は黒いランドセルだったのに。親は女の子が穿くような可愛いスカートを買ってきて僕に穿かせた。でもそれは女の子が穿くから可愛いんだ、僕は男の子だからスカートを穿くのは凄く気持ち悪かったし、死ぬほど嫌だった。でも、僕には『男子にあるべきもの』がなかった。母さんが僕を間違えて女に産んだんだ」

 あの坂田が、あまり感情を表に出さないあの坂田が、決壊したダムのように喋っている。斉木は何も言えずに黙って坂田をじっと見つめた。

「僕は女の子が好きだった。可愛くて男子みたいにガサツじゃなくて。好きになるのは全部女子だった。中学の頃も、恋愛対象は全て女子だったんだ。だけど僕はその女子たちに交じって制服のスカートを穿き、興味のない恋バナに参加し、誰がカッコいいとかそういうつまらない男子の噂を聞いてた。だけど僕は男子になんか興味はなかったんだ。僕は『同性愛者』じゃないからだよ」

「え、だけど、生物学的には同性愛じゃないよな?」

「心理的には同性愛だ。僕が斉木に恋愛感情を持つのも同性愛だ」

 斉木は混乱した。

「いや、待てよ、違うだろ? 俺が坂田に恋愛感情を持ったらそれは同性愛だろ、俺はお前を男だと思ってんだから。だけどお前は生物学的に女なんだから、お前が例えば俺に恋愛感情を持ったらそれは」

「同性愛だよ。僕の心は男なんだ」

 坂田が斉木の言葉を遮るように、強い口調で割り込んだ。

「坂田……」

 急に、斉木は坂田に拒絶されたような気分になった。それも強い拒絶だ。だがここで引き下がるわけにはいかない。

「でもさ、坂田。俺はお前が男だろうと女だろうと、やっぱりお前のことが好きだよ……」

「僕もだよ」

 何なんだろうか、この絶望的な気持ちは。二人が二人とも相手を好きだと言っているのに。

「僕は中学に入って身体が女子になってきた。生理も来た。僕はなりたくもない女になってしまった。母さんは喜んだよ。赤飯炊いて。いい事なんて何もなかったのに。六月に倒れた事があっただろ? 生理中だったんだ。すぐに貧血になる。体育も休まなきゃならない。胸も大きくなってきた。僕はそれが嫌でずっとさらしを巻いてた。バレるのが嫌で、人前ではTシャツを着ないようにしてた」

 それでTシャツを嫌がったのか、と斉木はやっと理解する。

「女子と同じ更衣室で着替えるのが苦痛になってきた。修学旅行では本当に死にたかった。女の体を持った自分が、それを人前に晒して、他の女子たちと一緒に風呂に入るんだ、こんな拷問があるか。中学三年の夏休みが始まってすぐ、僕は両親にカミングアウトした。父さんは驚いたけど何も言わなかった。母さんは……母さんは半狂乱になった」

 まさかそれで……自殺?

「最初、母さんは僕を殺そうとした。包丁を持って追い回されて。父さんが力ずくで止めてくれて。だけどその日の晩、母さんは自分を刺した。救急搬送されて、傷もそんなに深くなくて大事には至らなかったけど、それから鬱になって、鬱なんてもんじゃなくて、なんかもっと凄い事になってて、薄暗い部屋の中で一人で宙に向かって『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝ってたかと思えば、いきなり大声で喚き散らしてその辺のものを手当たり次第に壊したりして、とにかく僕を殺そうとしたり自殺しようとしたりして、手が付けられなかった。母さんが危険だからと言って父さんが会社を休むわけにはいかないから、入院させて病院で見て貰った。僕が様子を見に行くとまた狂ったように暴れて、病院側から僕は来ないように言われたんだ。少し良くなっても退院すると家に僕がいて、またすぐにおかしくなって、結局それの繰り返しでどうにもならなくて……」

 ふいに坂田の頬に涙の筋ができる。坂田はそれにさえ気づかないかのように言葉を次々と紡ぎだす。それも全く感情に起伏がないかのように、他人事みたいに淡々と。

「僕の体が女なのがいけないんだと思っていた僕はやっと間違いに気づいた、『僕の心が男なのがいけないんだ』ということに。だから僕はこの心を殺そうと思った」

 斉木がハッと顔を上げる。

「僕は母さんの睡眠薬を大量に飲んで、手首を切ってそのまま風呂に入った。これなら確実に死ねると思った。だけど神様は僕を楽に死なせてくれなかった。その日たまたま早く帰った父さんが僕を見つけて……。病院で目覚めた時、絶望的な気分だった。何故静かに死なせてくれないんだ? 僕が居なくなれば母さんが壊れることはないのに。それで、僕は病院でも何度も自殺を図ったんだ」

「もうやめてくれ」

「父さんは僕のためにアパートを近くに借りてくれた。父さんは僕が可愛かったわけじゃない、世間体を気にしたんだ。僕はそこに移り住んで、余計なことを考えなくていいように、ひたすら受験勉強に明け暮れたんだ、勉強さえしていれば母さんのことを考えなくて済んだから」

「坂田、もういい」

「家から離れた学校を受験して、そこで一人暮らしすれば母さんと会わなくて済む。だからここの学校を受験したんだ。ここなら知り合いは誰もいない、僕が生物学的に女子だってことを知ってる人もいない、ここで男子として生き直そうと思ってたんだ。それなのに……それなのに、入った学校には斉木が居た。せっかく男子として生きられると思ったのに、僕は、僕は……」

 そこで一旦言葉を切った坂田は、大きく息を吸ってはっきりと言った。

「斉木に恋をした」

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