第52話 リクエスト

 何曲目だろうか。斉木はテナーを吹きながら客のテーブルの間を練り歩き、それぞれのテーブルでワンフレーズずつ演奏していく。このプレイスタイルは客を一気に盛り上がらせる。

 それぞれのテーブルでゲイや女性客から頬に軽いキスを貰いながら歩き回り、最後に坂田の隣にやって来て寄り添うように演奏する斉木のその姿は、客をうっとりと幸せな気分にさせる。そして彼らもまたそれぞれに隣にいるパートナーの腰を引き寄せ、肩を抱き、頬を寄せあったりノーズキスを交わしたりして、お互いの愛を確かめ合う。

 二人は今年の『パリのベストカップル』に選ばれても全く不思議ではないような人気だった。

 ベーシストと一言二言、何か言葉を交わした斉木はテナーを置いてストラップを外すと、ピアノの方に向かった。客が一気に沸く。どうやらベーシストは斉木がどの楽器を演奏するときに客の反応がいいかを見ているようだ。ピアノに向かった斉木に口笛や拍手が飛ぶのを見て、何かいい感触を掴んだようにサムズアップして見せる。

 ベーシストがマイクを持って、斉木に弾いて欲しい曲はあるかと客席に尋ねる。

 思いがけないヤツを演ってくれと言うリクエストにちょっと肩を竦めた斉木が、ニヤリと笑って鍵盤に両手を乗せる。ゆっくりと右足をペダルに乗せるこの瞬間が好きで、坂田はこれを絶対に見逃さない。

 何を弾くのだろうかと店全体が期待する中、斉木が最初の一音を落とす。Esの音が刺さる。半音階で素早く駆け上がる変ホ長調。主和音を出さずに焦らす序奏。少しずつ見え始める主題の片鱗。満を持して華やかに登場する変イ長調の主題。

 ショパン、英雄ポロネーズ。

 ここで、このジャズクラブでまさかのクラシックである。斉木の長身から繰り出される深みのある音は聴衆を圧倒する。

 華やかなポロネーズの三拍子に大歓声と拍手と口笛が飛び交う。クラシックのコンサートではあり得ない光景である。斉木自身も楽し気に客席を見渡しながら、まるで遊んでいるかのようにショパンを弾いている。

 あたかも斉木のこれからの活躍を予感させるような、力強く鮮やかなメロディライン。華々しく光溢れるピアノの音色に、同じ空間にいる人間みんなが一様に気持ちの高揚を抑えきれずにいる。

 坂田は音楽の持つ力に驚愕し、斉木の尽きない才能に圧倒されながらも、自らもその心地良い熱気に酔っていた。

 ホ長調に転調したトリオでは、左手のオクターヴ連打の上に右手のメロディが乗り、一気に難易度を増す。聴衆はそのプレイに次第に静かになって行き、息を詰めるように見守っている。

 こうなってくると遊びたくなるのが斉木の面白いところである。何を思ったのか左手のオクターヴ連打を残したまま右手の曲が突然変わったのだ。その変化について来られない聴衆は、一体何が起こったのかすぐには理解できない。

 最初に反応したのがドラマーで、爆笑しながらそこにリズムを乗せてきた。つられるようにベーシストも「参ったなぁ」という感じでベースラインを入れて来る。

 聴衆の中から「Chattanooga Choo Choo!」と声が上がり、それがやっとグレン・ミラーのナンバーだと気付かされる。左手オクターヴ連打を汽車に見立てたアレンジで、ジャズのスタンダードナンバーにつなげたのだ。

 これには流石に聴衆も度肝を抜かれた。何という少年だろうか。こんな凄まじい技を、スカウトマンが来ているわけでもない普段の日に、お遊びでやらかす男、それが斉木和也なのだ。バンドマンたちもその辺は流石プロ、すぐに反応して曲として成立させる。

 客の中にも歌手はたくさんいる。この店は何でもアリなので、客で来ていても楽しくなってくれば飛び入り参加大歓迎だ。スタンダードナンバーなら誰でも知っている、本職ならいくらでも割り込めるのだ。

 数人の歌手が飛び入りで歌い始める。ステージに上がるわけでもなく、バーボングラスを傾けている自分の席でだ。プロ同士なので歌も上手く掛け合いにしたり、コーラスに回ったりして、その場の音楽をより楽しいものに引き上げていく。

 言ってみれば、この店は音楽を提供しながらも、見知らぬ客同士を結び付ける、そんな場でもあった。

 歌が入り、コーラスが入り、口笛が入り、店内の大歓声でグレン・ミラーが終わりを迎えると、拍手に紛れるように斉木が何かを静かに弾き始めた。

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