第53話 午後九時三十三分 ※
何の予告も無く始まったその曲は、アダージョでスタートする変イ長調の名曲、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』第二楽章だった。
カンタービレと書いてある通り、斉木は歌うようにこの優しいメロディを一音一音大切に弾いていく。全ての音を慈しむように、大事に大事に包み込むように、丁寧に鍵盤を押さえていくその姿は、坂田の全身を震わせた。
坂田だけではなかった。その場にいる全員が、その静かな音色に潜む熱い想いに圧倒され、いつの間にか拍手も止み、しんと静まり返った店内に響く斉木のピアノの音を、全員が呼吸も忘れて聴き入っていた。
斉木はこのメロディに坂田を重ねていたのだ。Cに、Bに、Esに、Desに。メロディを構成する一つ一つのゆったりした音に。一音ずつ坂田を感じ、坂田を想い、大切に大切に弾いている、それが全ての聴衆にダイレクトな波動として伝わってくるのだ。
こんな演奏が可能なのだろうか、これが十六歳の弾くピアノだろうか。バンドマンたちは斉木の才能に恐怖さえ感じ、全身が総毛立つのが抑えられなかった。
一人の客が入って来た。
静かでありながら、凄まじいまでの熱量と圧倒的な密度を持った斉木の演奏に心を奪われ、誰一人としてその客が入って来たことに気づかなかった。
その客はこのジャズクラブには毎日出入りしていた。ほんの一カ月前までは。この店の事は熟知していると言っても過言ではなかった。
午後九時半、この店が超満員になる時間帯である。店内のテーブルが全て埋まっていることを確認すると、男は手に持っていた長い包みを開き、それを脇に抱えた。とても静かに行われた一連の動作は、斉木の美しいアダージョ・カンタービレの邪魔をする要素は一つも見受けられなかった。次の瞬間までは。
甘く切ないメロディを掻き消すように重なった、耳をつんざくような爆音、客の悲鳴、怒号、グラスの割れる音、テーブルが砕け散る音。一瞬何が起こったのかわからないまま、血にまみれて床に沈んで行く人々。
「カズヤ!」
ドラマーの声が銃弾の当たったシンバルの音に掻き消され、そのまま呻き声に変化する。
阿鼻叫喚の中、斉木がピアノから飛び降り、坂田の上に覆いかぶさるように倒れ込む。
「坂田!」
坂田の身体を必死に庇う斉木に、連続した衝撃が伝わる。
「坂田! 坂……」
斉木の肩と脇腹が、一瞬焼けつくような痛みに襲われる。
「さ……い……」
坂田が口から大量の血を吐く。
「あい……し……」
言葉は途中からごぶごぶと空気と血の入り混じった音になり、日本語の意味を成さなくなる。
「坂田!」
背中に衝撃を感じ、斉木は片手で坂田を抱いたままポケットからスマートフォンを取り出す。血に濡れた手でメモ画面を開き、赤く染まって行く視界の中で指を震わせながら文字を打ち込んでいく。七文字打ったところで、彼の力は尽き、最後の力を振り絞って坂田を抱き締めた。
(坂田、ずっと一緒だ、これからもずっと……)
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