第28話 あの子
二時間経過した。水谷が持ち時間も何も考慮せずに始めてしまったのは、坂田がここまで粘ると思っていなかったからである。
正直、水谷は焦っていた。サロンの殆どの人たちが集まってこの対局を見ている。実はこの一番奥の席には天井カメラが付いていて、隣の部屋のモニターで対局を見る事が出来るのだ。つまりこの一番奥の席で優先的に指せるという事は、ここでのナンバーワンであることを意味する。
そのナンバーワン水谷が押されている。彼自身が連れてきた謎の少年に追い詰められつつあるこの構図を、モニターでみんなに見られているのだ。それを意識するせいか、水谷は必要以上に焦らされている。
一方、坂田にとっては完全なアウェイである。負けたとしても痛くも痒くもないのだ。その上、カメラが付いていることも知らない。知らぬが仏とはこの事である。
斉木はと言えば、水谷が延々と考えている時間に痺れを切らして、別の部屋でモニター観戦している人に「水谷ってそんなに凄いの?」などと声をかけては「天才だよ」なんて言われて肩を竦めたりしている。
そのうちに一人の中年男性が斉木に声をかけてきた。
「兄ちゃん、水谷君の友達ならそろそろ戻った方がいいな。あと十手以内で詰むぞ」
「え?」
「ほとんど勝負はついてるよ。早く行ってやれ」
「ありがとう」
斉木が先程の部屋に戻った時に、丁度水谷が頭を下げるのが見えた。
「終わったのか?」
「うん」
人々を掻き分けて二人の元へ行く斉木に、坂田は素っ気ない返事をする。
「完敗だよ。凄いよ坂田。お前全国レベルだよ。久しぶりに感動した。お前と対戦してる時間、すっげえ楽しかったよ」
「そんな凄くないよ。偶々だよ」
大感激する水谷とは対照的に、坂田の反応は淡白だ。斉木と目が合うと僅かに口元に笑みが漏れる程度だ。
「お前もしかして坂田
坂田が首を傾げる。
「誰? そんな人知らないけど」
「そっかー、お前の名前を成績順位表で見た時、あの子かと思ったんだけど男子だったから、あー別人かって。だけどお前もすっげぇ将棋強いから、親戚かと思った」
「あの子って誰だよ?」
横から斉木が割り込む。
「前に一度だけ全国に出たことがあってさ、小学生の時だけどさ、その時、坂田
「水谷の意外な一面見たわー」
「僕も」
二人の黒い笑いに、思わず水谷が前のめりになる。
「あ、お前ら学校で言うなよ!」
「二学期の初日に知れ渡るな」
「うん、確実だね」
「おいっ!」
それから暫く三人は談笑し、すっかり坂田に心酔した様子の水谷に見送られて、二人はやっとサロンを後にした。
建物を出るとムワッとした高温多湿の空気が二人にまとわりつく。夕方になっても真夏の太陽は手を抜いてくれる気はないらしい。
外に出て開口一番、斉木が「知ってるのか」と詰め寄る。それだけで坂田は何の話をしているか見当がついている。
「僕の事だよ。坂田
「まぁ、あれで『ゆみ』と読ませるよりは『ゆうや』の方が読めるわな」
「卑弥呼の『み』なんだけどな、一応」
「そういう問題じゃねーだろ、水谷は女子だった時のお前を知ってるって事だろ?」
「って言っても小学生の時だろ?」
斉木が大きな溜息とともに頭を抱える。
「その『小学生の時の』対戦相手の名前を漢字までしっかり覚えてるんだぞ、あいつは。何年生だ? 六年生ならほんの四年前だろう?」
「わかんないよ、全国なんて二年生から毎年出てたから……」
「昔っからどんだけ頭良かったんだよお前は。とにかく水谷には何を聞かれてもしらばっくれろよ?」
「当たり前だよ。それより……」
「ん?」
「水谷と長時間対戦したおかげで割と普通に歩けるようになったよ。もう送って貰わなくても一人で帰れる」
斉木はすっかり忘れていたのだ、自分が何故こうして坂田と歩いていたのかを。
「あ……そっか。でも」
「大丈夫。家まで送って貰ったら、今度はきっと僕が斉木を家に引きずり込んじゃうと思うよ」
「俺はそれでもいいけどな。ってゆーか、その方がいいけどな」
「バーカ。また今度な」
坂田が軽く手を上げて背中を向ける。その背中に斉木は「気をつけてな」と声をかけた。
茜色の空が坂田の後姿を赤く照らしていた。
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