第29話 ジェラシー

 八月に入って二週間が過ぎた。

 先日水谷と一局やった日にアドレス交換してからというもの、坂田には水谷からやたらと声がかかる。余程水谷は強い相手とやりたかったのだろう。毎日断るのも気の毒なので、三度ほど相手をしてやっていた。当然手は抜かずに、三度とも水谷の投了で終わってはいるが。

 それでも水谷は嬉しかったようで、対戦してもすぐにその日の晩にメールを寄越しては「明日は来れるか?」と誘ってくるのだ。

 それを斉木は尋常じゃなく警戒した。坂田が「水谷に一局付き合う」と言えば、すっ飛んできて水谷を見張っていた。しまいには水谷に「お前ら付き合ってんの?」と軽口を叩かれたが、そんな時でも斉木は涼しい顔で「ああ、俺らホモダチだから!」と言ってのけた。それでも純粋に強い相手が欲しいだけの水谷は坂田に下心があるわけではないので、斉木の冗談をそのまま冗談として笑っていた。水谷としては、斉木も坂田もかなり仲良くなったつもりでいた。まさか斉木が警戒しているなどとは夢にも思わなかったであろう。

 水谷と坂田は妙に気が合った。最初の頃、坂田にライバル意識を燃やしていたとはとても思えないほど、水谷は坂田に懐いていた。二人とも成績が良く、アカデミックな話題でも二人で大いに盛り上がる事ができたし、将棋の事もちょっと水谷が振るだけで坂田はすぐに理解して話を打ち返してきてくれるので、水谷にとっては久しぶりに同等レベルで話ができる友達だったのだ。

 面白くないのは斉木である。坂田は自分だけのものだと思っていたのに、サロンに行けば必ず水谷と楽しげに盛り上がっている。しかも音楽と体育以外にこれと言って得意科目があるわけでもない斉木は、二人の会話が宇宙語にしか聞こえないのだ。将棋の話をしていても、美濃囲いだの居飛車穴熊だの金無双だのと言った専門用語が普通に飛び交っていて、斉木は全く手も足も出ない状況に追い込まれている。

 この状況に激しいジェラシーを覚えた斉木は、しまいにはサロンを出ると同時に坂田を強引に家に連れ帰り、そのまま問答無用でベッドルームに直行などという強行に出るまでに陥った。これには流石に坂田も苦笑するしかなかった。

 歯止めを知らない未熟な人間である。二人は斉木の家で会うたびにお互いを激しく求め、その身体に溺れた。傍にはいつもジャズがあり、二人の感覚を麻痺させた。音楽は彼らに必要以上の興奮を与え、更なる欲求へと導くのに一役買っていた。勿論本人たちは全く意識などしてはいなかったが。

 この頃の二人は人生で最も充実していたのかもしれない。この後次々と押し寄せる苦難を前に、せめて僅かな時間だけでも幸せに過ごすようにという神の慈悲だったのだろうか。

 そして、彼らは人生の悪夢に突入していく。

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