第30話 優弥ちゃん

 夏休みも終わりに近づいてきた。今日も斉木と坂田は水谷の待つサロンにせっせと足を運んでいる。当然と言えば当然ではあるが、サロンに行く日は斉木の機嫌があまり良くない。いつもそうであるように今日も対局後、坂田は独占欲と嫉妬で溢れかえりそうな斉木に、家に引きずり込まれるのだろう。

 今日は夏休み最後の対局という事で、水谷の気合が違う。二人が到着するなり、これまでの坂田との対戦を復習して来たことを饒舌に語って、サロンの人たちを大いに沸かせた。

「だってさ、初日入れて四戦してるけど今んとこ全戦全敗だよ、この俺が。そりゃー徹底して坂田の戦略を勉強するに決まってんだろ? 四戦ともビデオに残してあって、ここの対局記録にも残してある。みんなが競って読んでるよ」

「えー? 戦略なんてもんは無いよ。その時の気分で指してるから。それに僕は水谷みたいに将棋の定石とか戦法とかそういうの全く興味ないから、何かの戦法に当て嵌めて考えても無駄だと思うよ、気まぐれだから……」

「すっげ勉強してる俺に気まぐれで勝ってんじゃねーか。お前さり気に俺に喧嘩売ってる?」

 水谷が自虐的に笑うと、サロンの人たちがみんな大笑いする。

「もー、笑い取らんでいいからさっさと始めろよ。俺、暇だから宿題やってっし。またどーせ坂田が勝つんだから、終わったら呼べよ」

「あ、てめ斉木ー!」

 今日は水谷の気が散らないように、サロンの人たちは全員斉木と一緒に別室モニターで観戦している。例の部屋には水谷と坂田だけである。

 モニター正面に陣取った恰幅の良いオバチャンが二人の指す手を読み上げている。隣でオジサンが記録していく。このオジサンは初日に投了を斉木に予告してくれたオジサンだ。

 水谷は序盤から時間をかけていろいろ考えているようだが、坂田は水谷が指して十秒としないうちに次の手を打ってくる。本当に彼の言う通り、気まぐれに指しているような感じである。別室で記録しているオジサンも「この子は考えて指してんのかねえ?」と首を傾げている。

 二人っきりの部屋では駒が盤面を打つ音が響き、偶に水谷が「うーん」と唸る声が響いては坂田のクスッと笑う声に引き継がれる。

「なあ、坂田」

「ん?」

「俺、小学校の時に負けた坂田優弥ゆみって子、一目惚れって言ったの覚えてる?」

 いきなりの水谷の言葉に一瞬たじろぐ。

「うん」

「お前に会ったから、もうその子の事はどうでも良くなったよ」

「何言ってんだよ、大体その子だってもう二度と会えなかったかもしれないんだろ?」

「今、目の前にいるからいいんだよ、優弥ゆみちゃん」

 坂田が目だけ上げる。

「どういう事?」

「隠さなくてもいいよ。俺は知ってんだよ、坂田。心配しなくていいよ、ここはカメラはついてるけどマイクは無い。俺と坂田以外にここの会話を聞いている人はいない。音に関しては完全な密室」

「話、見えないけど」

 パチンと坂田が次の一手を指す。まるでブレない。

「坂田優弥ちゃんの対局は徹底的にビデオを取り寄せて見まくったんだ。彼女の指し筋には全然決まった形が無くて、毎回その場の雰囲気に流されるように自然に指してた。今の坂田と同じようにね」

「僕はそんなに将棋をやってないから戦法とか知らないだけだよ」

「優弥ちゃんの癖があるんだ」

 坂田がチラリと水谷を見ると、彼の眼鏡の奥で探るように坂田を見つめる瞳と視線がぶつかった。

「ふうん。どんなの?」

「正座したときに、何故か膝の上で手を組むんだ。右手の親指が上に来るようにしてね」

 坂田はハッとする。今、自分の手がまさにその状態にある。

「あんまり膝の上で手を組んでる人って見ないからさ。坂田は最初に来た日からずっとそうやって膝の上で右手の親指を上にして手を組んでた」

「そう」

 坂田の返事は素っ気ない。

「斉木は知ってんの?」

「何を?」

「坂田が女子だってこと」

 これには流石に坂田も顔を上げる。

「僕は優弥ゆうやだ。悪いけど水谷の初恋の人じゃないよ」

「そうか。残念だな」

 水谷が突然立ち上がった。

「なんだ、投了か?」

「いや、ちょっと休憩」

 そう言って坂田の後ろに回った水谷は、いきなり背後から坂田を抱き締めた。

「なっ……水谷?」

「なぁ坂田。お前この胸、どう説明すんの?」

「痛っ」

 乱暴に胸を鷲掴みにされ、思わず声を上げる坂田の耳元で水谷が笑う。

「お前、『男』にしちゃ結構胸あるな」

「やめ……放せ」

「言ったじゃん? ここの声は向こうには聞こえないんだよ。カメラも盤面目一杯に設定してる。膝も映らないよ。ここでこうして俺がお前に何かしても誰も気づかない。みんながモニターを凝視しててもね」

 坂田は必死に抵抗するが、いくら水谷が勉強しかしていないモヤシと言えど、坂田と違って肉体的に男子なのだ、簡単に体の自由を奪われてしまう。

「僕が坂田優弥ゆみだったら何なんだ。どうする気なんだ」

 一瞬の間があって、水谷がふっと手の力を緩める。急に体の自由を取り戻した坂田は、咄嗟に身を引いて水谷を睨みつけた。が、彼のその表情を見て固まった。

 哀し気な、それでいて優しい微笑みを見せながら、彼はボソッと呟いた。

「坂田優弥ゆみちゃんにお別れを言わせてほしい」

「え……」

 水谷は、今度はそっと坂田を抱き寄せて小さな声で囁いた。

優弥ゆみちゃん、さよなら。ありがとう」

「水谷……」 

 坂田から離れた水谷はもう、いつもの彼に戻っていた。清々しい笑顔を見せながら力強くこう言った。

「大丈夫。お前と斉木がデキてるのは知ってる、邪魔はしないよ。お前ら二人でどうにも片付けられないような問題が起こったら、俺に相談しろ。ブレインは多い方がいいだろ? 少しは役に立てると思うよ」

 呆然としたままの坂田の肩に手をかけると、水谷は盤面上のカメラに向けて手招きする。三十秒ほどして斉木が部屋に入ってくると、水谷が困ったような顔を向けた。

「おい斉木。坂田、具合が悪いようなんだけど……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る