第33話 黒いオルフェ
「なぁ。聞きたいことがあるんだけど」
長いキスの後に、斉木がおもむろに切り出した。坂田が長い睫毛を上げる。部屋の中では先程からジョン・コルトレーンが甘いバラードを奏でている。
「何?」
「お前今日、その……三限始まる前、具合悪かったんだって?」
坂田が視線を逸らす。
「水谷か」
「すげえ心配してたぞ、あいつ」
「なんでもないよ」
斉木は話をどう持って行っていいか悩みながら、無意識に坂田の手を握る。
「な、単刀直入に聞くけどさ。あれから一カ月半経ってるけど、俺、一度も断られてないよな。その……この一カ月半ほど来てないってことだよな?」
「何が」
「……生理」
坂田が顔を逸らしたまま、目だけ斉木を見る。斉木は一瞬たじろぐが、ここで目を逸らしてはいけないことは重々承知している。先に視線を外した方が負けなのだ。
「来てないよ」
そう言うと、坂田は鼻からゆっくり息を吐く。
「気づいてたんだろ?」
「……陽性だったよ」
「えっ」
坂田の言葉が妊娠検査薬を使用した結果だという事を悟るのに、斉木は〇・五秒とかからなかった。
「な、病院行こう。産婦人科行こう。俺と一緒に、な?」
「七週目だよ。もう行ってきた」
――なんてことだ、こいつは誰にも言わず、一人で背負っていたのか?
落ち着き払っている坂田とは対照的に、斉木の心の中は右往左往している。
「なんで俺に何も言ってくれなかったんだよ?」
「言う必要が無いからだよ」
「無いって、お前、その、お前の中にいる小さな命の半分は、俺からできてんだぞ? ……え、まさか俺以外の男と?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあなんで……」
……俺に言う必要が無いんだよ、とそのあとに続けたかった言葉を呑み込んで、斉木は坂田から視線を外した。坂田は何も言わず、ぼんやりと膝の上で組んだ手を見つめている。斉木は坂田に声をかけていいのかさえ分からない。
暫くして、坂田が沈黙を破った。
「斉木のピアノが聴きたい」
「ああ……いいよ、わかった」
二人はスタジオに移動した。斉木が鍵盤の蓋を開けると、いつものように白と黒の鍵盤がお行儀よく並んで斉木の指を待っている。
斉木がピアノの椅子に浅く腰掛けると、坂田はモニター前の椅子を斉木の指が見えるところまで持ってきて座る。
斉木が鍵盤に指を置く。何故か自分でもわからないが、坂田の顔を見ていたら急に一つの曲が頭に浮かび、それを無意識に弾き始める。
黒いオルフェ。斉木はこれが映画の音楽だという事は知っているが、それが何か悲しいストーリーらしいという事しか知らない。
ラテンのテイストを残しながらジャジーなアドリヴを展開していく斉木のピアノにうっとりと耳を傾けながら、坂田は「この音は世界レベルの音なのだ」と確信する。それと同時に、自分の存在が斉木にとってマイナスになる事があってもプラスになる事は無いという事も。
お腹の小さな命は聴いているだろうか、これが君のお父さんの音だ。君のお父さんはこんなに若くして天才と呼ばれているんだよ。凄いだろう。君にもっともっと聴かせてやりたかったよ。だけど、それはできないんだ。君は僕と一緒にお父さんから離れて遠くに行かなくちゃならないんだからね。だから、今、ちゃんと聴いておくんだよ、お父さんの音を……。
坂田は斉木の演奏が間もなく終わろうかと言う頃に、静かに立ち上がるとスタジオを出ようとした。
「どこ行くんだよ」
「帰るんだ」
「待てよ」
斉木が坂田の腕を掴んで引き寄せると、背中を向けていて見えなかった坂田の顔がこちらを向いた。
泣いていた。
声も立てず、ただ
「どうしたんだよ」
「放せよ」
「やだよ」
「放せって!」
坂田が斉木の腕を振り払った。が、次の瞬間には坂田の身体は斉木の腕の中に完全に拘束された。
「やだって言っただろ」
「斉木はもう僕の事は忘れろ」
「は? 何言ってんのお前」
「僕はもう斉木と一緒には居られない」
「なんでだよ」
「わかんないのか? お前はプロなんだよ。これから世界に出ていく人間なんだよ。そんなお前が、性同一性障害のしかも同性愛者の僕と身体の関係になって、十六歳で子持ちのパパになるんだぞ? プロならちゃんと自分の脳味噌使って考えろ、今の世の中は僕たちのような性的少数者に対してそんなに理解が進んでないんだ。お前が僕みたいなのをパートナーにしてるなんて事になったら、お前がブレイクした後で必ず後ろ指を指されることになるんだぞ!」
斉木の腕の中で坂田が暴れる。
「だから何なんだよ」
「バカかお前は!」
「バカで結構、俺はお前ほど賢くない!」
「開き直るなよ!」
「坂田こそ、自分を投げてんじゃねーよ!」
暴れていた坂田が急に大人しくなった。
「頼む、斉木。頼むから……僕のために、自分を大切にしてくれよ……」
「じゃあこっちも頼む。俺のために、自分とお腹の命を大切にしてくれ!」
「斉木……」
坂田が泣き崩れる。
「な、坂田。これからの事、少し真面目に話そう」
斉木は彼を抱きしめたまま、ゆっくりとスタジオを出た。
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