第8話 長袖シャツ
六月になった。ジメジメしているのに変に温度が高い。所謂『温暖湿潤気候』である筈の日本が、『熱帯雨林気候』に感じる季節だ。これだけ湿度が高いと、普通にしていても空気中の水分に溺れるような錯覚に陥る。何しろ息苦しい。
こんな日の学年集会は最悪だ。先生のクッソつまらねえ話をただ黙って聞いていなければならないのだから。
しかもこの日の坂田は、朝から非常に調子が悪かった。出来る事なら教室で学年集会が終わるのを大人しく待っていたいくらいだったが、寝不足になるほど勉強している奴に比べれば余程問題の無い状態ではあった筈だった。
が、朝から顔色が優れないのを斉木はずっと気にしていた。学年集会は名簿順に並ぶので、斉木のすぐ後ろが坂田なのだ。そしてその後ろに
学年集会の間、斉木は何度も後ろを振り返っては坂田を気にしていた。
「おい、ほんとに大丈夫か? ヤバかったら座っとけ」
「大丈夫だって」
そうは言うものの、三分おきに振り返っては斉木が確認するのだ。そんな斉木の心配性に坂田は思わず笑ってしまう。
だが、もうすぐ学年集会も終わろうと言う頃になって坂田に唐突に限界が来た。自分でも気づかないまま突然倒れたのだ。
すぐ後ろの田野倉が「キャッ」と小さく悲鳴を上げる。
「坂田君、大丈夫?」
斉木もすぐに振り返る。一瞬で状況を呑み込んだ斉木は、直ぐに坂田の小柄な身体を抱き上げ、周りの驚く生徒たちを掻き分けて講堂の後ろの出入口から保健室に向かった。
「まったく。だから無理すんなつってんのに……」
ブツブツ言いながら保健室のドアを足で開け、勝手にその辺のベッドに坂田を下ろすと、上靴を脱がせて畳んだ布団の上に脚を乗せる。脳貧血の場合はとにかく脳に血液を戻すのが先決だ。斉木は坂田の腕を掴むと、手首の方から肩に向かってその腕をさすってやる。
「ほっそいな、コイツ。軽いし。五十キロねーだろ」
ブツブツ言いながら腕をさすっていると、ふと、長袖シャツの袖口から手首に何かが見えた。
「え……」
――リスカ痕……。こいつ、リストカットしてたのか?
斉木の心臓が一遍に跳ね上がる。坂田の青白い顔には長い睫毛が影を落とし、恐ろしく美しく見えた。
――お前、何があったんだよ?
そう思った瞬間、ふと、その長い睫毛がピクリと動いた。ゆっくりと開いた瞼から緑色がかったグレーに見える瞳が覗いた。
「あ、斉木」
「お前、心配すんじゃねーか。だから言っただろ、座っとけって」
「あー……。学年集会は?」
「知らねーよ、そろそろ終わったんじゃね? とにかくお前、一限ここで休んどけ」
「それはムリ。一限数学じゃん。置いてかれる」
「何言ってんだよ、お前成績学年トップじゃん」
「じゃ、二番目になっちゃう」
「アホか」
「大丈夫。戻る」
「じゃ、今日は一人で行動すんな。俺がトイレでも何でもついてってやる」
「変態」
「アホ」
斉木が背中を支えて起こしてやると、坂田がギョッとしたような目をする。
「何?」
「いや、別に」
「お前五十キロねーだろ」
「四十八キロ」
「痩せすぎ。ちっと太れ。倒れたのが後ろの田野倉じゃなくて良かったよ。アイツだったら抱き上げらんなかったし。お前なら何度でもお姫様抱っこしてやれる」
「やっぱホモだろ」
「ちげーって」
ツッコミを入れながらも、坂田は微妙な気分でいた。
その日は本当に予告通り、斉木は一日中坂田にベッタリくっついていた。トイレに行くにも、先生に呼ばれて職員室に行くにも、だ。
そして放課後、今日は吹奏楽部に顔を出さずに帰ると言う坂田に、再び斉木がくっついている。
「大丈夫だってば」
「お前、朝そう言ってぶっ倒れたじゃん。お前嘘つきだから信じねぇ」
「心配し過ぎ」
「とにかく今日は家まで送る」
「要らねーって」
「許さねー」
ふと、坂田が淋しそうな顔で上目遣いに斉木を見た。
「斉木さ、すげー嬉しいんだけど、家、あんま知られたくないんだ」
斉木はそれを聞いてハッとする。
「あ……ごめん」
「ううん、こっちこそごめん。ウチ、両親居なくて、爺ちゃんとこに居候してるから」
「え? なんで親居ねーの? ……あ、ごめん、俺には関係ねーよな、ごめん」
「いや、別にいいんだけど」
なんとなく気まずくなって、斉木が取り繕うように明るい声を出す。
「じゃあ、まあ、気を付けて帰れよ」
「うん」
一人靴箱の前に取り残された斉木は、吹奏楽部の練習に戻る気にもなれず、なんとなく靴を履きかえて校舎を出た。
斉木の頭の中には、朝、保健室で見た坂田のリスカ痕が鮮明に残っていた。何故坂田は両親が居ないのか、引っ越して来たと言うのはそれと関係があるのか、リストカットはそのせいなのか。
どうにも整理のしようの無い想いが斉木の中でぐるぐるぐるぐると回っている。俺に相談してくれたらいいのに、そう思う反面、相談されても何も答えられないだろうという気もする。だがいつまで気づかないフリができるだろう?
「斉木」
ふと横から声を掛けられ、顔を上げると、さっき先に行った筈の坂田がいる。
「何やってんだ」
「今からお前んとこ行っていい?」
「はぁ? いや、別にいいけど」
「ちょっと話したくてさ」
もしかしたら両親の事かも知れない、そう思うと、斉木の胸は高鳴った。
「わかった」
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