第15話 W・S・坂田

「お前、何か楽器やってただろ? 筋が良すぎる」

「え……、小さい頃ピアノやってたよ」

「やっぱりな」

「でもほんとに小っちゃい頃だよ。小学校三年生位でやめた」

「続けりゃ良かったのに」

 スタジオのピアノの前に座った斉木に、フロアタムのリムを指先で撫でながら坂田が溜息をついて見せる。

「好きでやってた訳じゃないから。っていうか、ピアノ嫌いだったし」

「なんでよ?」

「無理やり習わされてて、面白いと思ったことなんて一度も無い」

「楽器なんて『面白い』と思ってやらなきゃ上手くなんかならねーよ」

 そう言いながら、斉木は何かを弾いている。聴いた記憶のあるコード進行だ。

「それ、ジャズフェスの時の?」

「ああ、そうだよ。よく覚えてんな。やっぱお前、耳もいいけど、記憶力もいい」

 鍵盤の上を滑るような斉木の手の動きを見ていると、坂田は背筋がゾクゾクする。

「斉木の手、エロいな」

「ピアノに限らず、楽器ってのは好きな相手を思い浮かべて、優しく愛撫するような気持ちで弾いてやるもんだぜ」

「その表現が既にエロい」

「ちょっとこっち来いよ」

「え?」

「ここ座れ」

 斉木が今まで自分の座っていたピアノ椅子を指して言う。坂田は何だかわからないまま、言われた通りに座る。

「エロい事しないだろうな」

「するかも」

「この変態BL男」

「お前コードって判る?」

「判らん」

「じゃ四つだけだから覚えろ。まずこれ」

 斉木がその大きな手でいくつかの鍵盤を押さえる。

「こう?」

「そうそう、次がこれな」

「ラジャー」

 こうして四つのコードを覚えたところで、四拍ずつ伸ばすように言われた坂田は、言われた通りに弾いた。

 斉木がストリングベースを構え、坂田のピアノに乗せてウォーキングを披露する。ベースの音がピアノに乗って気持ちよく歩き回っているのだ。坂田は俄然楽しくなってきた。

 二人で顔を見合わせて弾いていると、今度は斉木がドラムの方へ移動する。何をするのかと思えば、ただの四拍伸ばしでしかなかったピアノのコードにリズムパターンを付け始めたのだ。

 正確なハイハットワーク、切れのいいリムショット、遊び心に満ちたベードラ、どれをとっても坂田を興奮に導くのに十分過ぎた。

「これに合わせてちょっとリズム付けられっか?」

「やってみる」

 坂田のピアノがリズミカルにコードを刻み始める。斉木がヒュ~と短く口笛を吹く。

「お前やっぱ筋がいい。センスあるよ」

 満足したように斉木がピアノに戻ってくる。一つの椅子に二人で半分ずつ尻を乗せて、仲良くピアノに向かう。

「ベースの流れとドラムのリズム、完璧に入ったな?」

「うん」

「よし、俺が何やっても崩すなよ」

「OK」

 それは突如押し寄せた。坂田には一瞬何が起こったか判らなかった。自分が弾いているコードと全く無関係な曲を斉木が弾き始めたのだ。

 焦る坂田に斉木はニヤリと笑って言った。

「続けろ」

 そんな事を言われても、全然コードと合っていないのだ。坂田は頭が混乱したまま、とにかく斉木の音を無視して自分の弾くべきコードを押さえ続けた。

「バッハのインヴェンション第四番だよ」

「え……」

 坂田はそれどころではない。

 ところが。

 暫くするとだんだんそのバッハがコードに乗ってきたように感じ始めた。目を白黒させている坂田に、斉木がニヤニヤしながら「行くよ」と言う。この上何をする気なのか。

 坂田のコードに乗せた形でバッハが変形していく。しっかりとバッハの原型を残したまま、別の曲になっている。その上更に別の曲を弾き始めた。バッハの上に重ねて、だ。

「ちょ……」

「モーツァルト」

 斉木は楽しそうだ。そのモーツァルトも坂田のコードに乗せて変形している。

「ウォルフガング・セバスティアン・坂田って感じ?」

 こんな無茶をしながら冗談を言っている斉木は、最早坂田にとってバケモノ以外の何者でもない。

「じゃ、そろそろモーツァルトとバッハには帰って貰って、俺らの演奏すっか」

「え?」

「あとはお前好きなように弾いていいよ」

 いきなり斉木が今までのコード進行に乗せて好き勝手に鍵盤を叩き始めた。緩急の付いたメリハリのあるサウンド。まさにジャズフェスの時のようなダイナミックな音だ。

 坂田は斉木の音に飲み込まれそうになりながらも必死で食いついてくる。斉木が嬉しそうに椅子から立ち上がる。何をするのか。坂田の背後に周ってその長い両腕を広げ、坂田の弾いている音の上下、超低音部と超高音部に両手を置いて後ろからガンガン弾き始めたのだ。

「ウソだろ……」

 坂田の手とクロスさせたり、コードの上からかぶせたり、メチャクチャな事をしているのに、音楽として、また曲として成り立っている。鳥肌の立つようなサウンドである。

 そして坂田自身、本当に肌を粟立てていた。坂田のすぐ横に顔を出した斉木が、鍵盤を叩く度にその熱い吐息を耳元に残して行くからだ。

 暫く情熱的なセッションが続き、斉木が「coda」と小声で囁く。坂田にとっては凄まじく懐かしい響きだ。もう何年その言葉を聞いていなかっただろうか。だが、一発で意味を理解した坂田は、演奏しながら斉木の合図を待った。斉木は初心者の坂田を上手く誘導するようにエンディングに持って行き、綺麗に最後をまとめた。

 弾き終わって呆然とする坂田の腕を掴んで引き寄せた斉木は、そのままの勢いで彼の唇を奪った。何が起こっているのか判らない坂田は全く抵抗する事無く、そのまま斉木の行為を受け入れた。

 少しして自分が斉木にキスされている事に漸く気付いた坂田は、慌てて彼を両手で押し返した。

「なっ……斉木……」

「あー、興奮してお前が欲しくなったわー」

「何すんだこの変態」

「お前も興奮しただろ」

「したけど、BLはナシ」

「いーじゃん。お前、男とは思えない」

「アホか」

「この前言っただろ? 次にこのスタジオに入る時、お前犯してやるって。勝負パンツ履いて来たか?」

「そんなもん無いよ」

「わざわざ予告したんだから準備しとけよ」

「するかよ」

 そう言いながらも、坂田はほんの少し期待してしまった自分の心臓の音が斉木に聞こえてしまうのではないかと気が気では無かった。

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