第56話 銀杏の木

 彼らが無言の帰国をしてから一週間が経った。

 司法解剖も終え、彼らの葬儀も済んで、形式的には一段落ついた。

 だが、友人たちの心の傷はそう簡単に癒えるものではない。二人が残していった忘れ物、上靴や傘、体操服、そんなものを見てはクラスメイト達は思い出したように涙を流した。

 文化祭で大盛況だった1年B組の迷路。坂田の書いた設計図はいつまでも教室の後ろの壁に貼られていた。斉木の落書きが隅の方に描かれたままの設計図だ。

 


 昼休みに水谷は先生に呼び出された。警察関係者が面会に来ているという。言われた通りテニスコート前の銀杏の木の下に行ってみると、あの日の島崎が煙草をふかしながら立っていた。

「こんにちは」

「やあ、すまんね、お昼休みに」

「いえ。もう会うことは無いと思ってました」

「俺も」

 島崎は肩を竦めて苦笑する。相変わらず皺くちゃのワイシャツにヨレヨレのスーツを着て、今日はネクタイを締めている。こういう人はトレンチコートを着るものだと水谷は勝手に思っていたが、フードの付いたハーフコートのようなカジュアルなものをスーツの上に羽織っていて、島崎の年齢をますますわからなくさせていた。

「校内禁煙ですよ」

「ああ、すまんすまん」

 島崎は慌ててポケットから携帯用灰皿を出して煙草を片付けると、水谷の方を向いて苦笑いする。

「まるで生徒会長の貫禄だね」

「副会長です。まだ1年生ですから」

「1年生で副会長さんか」

 島崎は「参りました」という風に肩を竦めて見せる。 

「やっぱり君の勘は当たってたね」

「……パリでしたね」

「パリの外れの方にあるジャズクラブでね、若手のクリエイターたちが集まる店だったらしいよ」

 水谷は俯いて何度か頷く。わずかに残った銀杏の葉が風に乗って舞い降りて来る。

「そこはLGBTの人たちがよく利用してたらしい」

 水谷がキッと目を上げる。

「君は知ってたんだろう? 坂田君の事」

「何をです?」

「彼が『彼女』だった事」

「だったら何なんです」

 水谷の言い方に僅かに反発的な色を見た島崎は、少し笑って鼻からふーっと長く息を吐く。無精髭さえもこの男には似合っている。

「オッサンだったらLGBTに良からぬ感情を持ってると思うのかい? 先入観から入ると見える筈のものも見えなくなるんだろ?」

 水谷は島崎の言葉にハッとして、苦笑いしてしまう。

「そうでしたね」

 そう言うと、水谷は島崎から視線を外し、テニスコートの方を向いた。

「何故あんな事件が起きたんですか?」

「ああ......犯人はそこの元従業員でね、性的少数者に対して差別的な発言をして店のオーナーに解雇されたんだ。それからなかなか仕事に就けず、一方的に怨みを募らせたらしい」

「それで七十人惨殺ですか」

「ああ、身勝手な話だよ」

 水谷が溜息をつきながら首をゆらゆらと左右に振る。

「信じられない」

「信じられない事が事件として起こるもんだ。精神が成熟しないまま身体だけ大人になっちまった奴が多すぎる」

 水谷が眼鏡の奥から島崎を睨む。

「彼らの事も暗に言ってますか?」

 一瞬「え?」という表情をした島崎が、ハッと気づいてバツが悪そうに苦笑いした。

「いやいや、そういう意味じゃないよ。全く君は頭が良すぎて参っちゃうな……。その……坂田君はトランスセクシュアルだったのかな?」

「トランスセクシュアルじゃありませんよ、彼は。性同一性障害です。身体は女性、心は男性でした。だから俺たちは彼を男友達として付き合ってたんです」

「男友達……」

 暫く眉間をつまんでいた島崎が、フッと顔を上げる。

「司法解剖の結果、坂田君は妊娠した形跡があったんだが」

「ええ、そうですよ。『彼』の妊娠に気づいたのは俺ですから」

 島崎は少し考えて、ゆっくりと言葉を選ぶようにしながら水谷に話しかける。

「性同一性障害というのが良く分からないんで、君に教えてほしいんだけどね。つまり『彼』は心が男なんだよね? 性的な興味の対象は女性になるんじゃないのかな?」

 水谷は島崎の方に向き直り、眼鏡のフレームをキュッと上げ直す。

「そうです。彼の性的な興味の対象は女子でしたよ。でもバイセクシュアルの人だっているでしょう? 彼は女子を興味の対象としながらも、男子に心惹かれてしまった。全く不思議じゃありませんよ。女性ホルモンの成せる業かも知れませんしね」

 大人でもなかなか言えないであろう事を目の前の少年がサラリと言うのを見て、島崎は首の後ろをさすりながら「参ったね」と呟く。

「その……答えにくい事だとは思うんだけどね、『彼』が中絶した子供の父親は、君だったのかい?」

「は?」

 水谷は一瞬呆気にとられ、言葉を失う。

「ああ、ごめん、言いにくいのは十分承知してるんだが」

「いえ。俺じゃありませんよ」

「え? でも『彼』の妊娠に気づいたんだろう?」

「ええ、父親よりも俺の方が敏感でしたからね。父親は斉木です。斉木と坂田は愛し合っていました。こんなことを俺が言うのはなんか変だな。でも実際そうだったんだから仕方ない。坂田は男の心のまま斉木を愛していたし、斉木も男の坂田を愛してたと思います。男同士だってやることはやるでしょう? それが偶々片方が『身体だけ』女だったんです。だから良く言えば『上手く行った』悪く言えば『失敗した』そういうことです」

「身体だけ女か……」

 首を傾げる島崎に、水谷はきっぱりとした口調で切り返す。

「そうですよ。『心だけ男』だったんじゃないんです。彼は『偶々身体だけが女』だったんですよ。この世の中は、物理的な性染色体を基準に語ろうとし過ぎる。良くない傾向です。神が人間に与えた最も崇高なものって心だと思いませんか? 性染色体なんかよりも、心を基準に性別は語られるべきだと俺は思うんですけど」

 島崎は感心したように溜息をつく。

「君は哲学者だね」

「それ、いろんな意味にとれますよ。あまりいい気はしません」

「すまんすまん、良い意味で言ったんだ。俺にはその発想はできないんでね。いやしかし若いってのはいいもんだ、俺みたいに歳食うと、どうも発想に偏りが出て来る」

 島崎はどうやら本気で羨ましがっているようだ。

「性的少数者が幸せに住める国はないんだろうか」

「ん?」

「性的少数者が、そのことを隠さなければ幸せになれないなんて、この国はどうかしてる。数の暴力でマイノリティが迫害されるような社会を持つ国家が、偉そうに『先進国』なんて名乗る資格は無い」

 水谷が呟く。誰に言っているわけでもなく、ただ心に浮かんだことをそのまま音声として発している、そんな印象を島崎はこの少年に感じた。

「あ、そうだ、大事なことを一つ忘れていた。斉木君のスマホの画像を持って来たんだ」

「斉木の?」

 水谷が食いつかんばかりに島崎に詰め寄る。

「まあ、待て。ちゃんと見せるから。実物は持って来られなかったが、写真だけ撮って来た。犯人に肩と脇腹と背中を撃たれ、亡くなる間際にメッセージを残そうとしたんだろう。恐らく、君宛だ」

 渡された写真を食い入るように見つめた水谷は、暫く何も言えず呆然としていたが、島崎の声に我に返った。

「じゃ、俺行くわ。いろいろ教えて貰ってありがとう。勉強頑張れよ」

「ありがとうございました、いろいろお世話になりました」

 深々と頭を下げた水谷は暫く顔を上げることができなかった。島崎は背中に水谷の気配を感じながら足早にそこを立ち去った。水谷にこれ以上涙を我慢させるのが気の毒だったのだ。

 島崎が見えなくなると、水谷はそのまま銀杏の木にもたれて座り込んだ。そして天を仰いで慟哭した。

 手にした写真には血に濡れたスマートフォンの画面が写っていた。


『みずたにありが』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る