第57話 赤い花
銀杏の葉が地面を黄色い絨毯のように覆いつくした墓地に、その青年は立っていた。木の陰から黒猫が姿を現す。青年は眼鏡のフレームを静かに上げ、黒猫の方に手を出すが、猫は彼に一瞥をくれただけでそのまま歩いて行ってしまう。
パリは確か西岸海洋性気候だと習った。もう十年以上も前だ。西岸海洋性気候は冬暖かいイメージがある。が、冷静に考えれば降水量の違いだけで温暖湿潤気候と気温は左程変わらない筈だ。とは言え、湿度が体感温度に与える影響は決して侮れないというのも理解しているつもりではあるが。
彼は手にしたメモをもう一度見ると、ぐるっと周りを見渡す。一時間ほど前にマノンという名の恰幅の良いご婦人に書いて貰ったメモだ。
彼女はいきなり押しかけたにもかかわらず、昼食がまだだった彼に軽食を御馳走してくれた。そこで食事をしながら彼にたくさんの事を教えてくれたのだ。
「カズヤはカンパーニュが好きでね、ユウヤはバゲットが好きだったの」
「二人とも私のシャンピニオンのスープが大好物で毎朝食べてたわ」
「カズヤのピアノは天使のピアノ。でも偶に悪魔のピアノになるの」
「ユウヤは日本語の先生をしててね、生徒に一番人気だったのよ」
「彼らを悪く言う人なんて一人もいなかったわ、みんなに愛されてたの」
「二人とも私の子供みたいなものだったわ。私の宝物だった。とてもとても愛してたのよ」
マノンの作るシャンピニオンのスープは本当に美味しかった。二人が喜んで食べる筈だ、と彼は思った。ベーコンとエメンタールチーズ、アボカド、玉葱、トマトを挟んだカンパーニュは、とても素朴な味がした。このサンドウィッチをいつもお弁当に持って行っていたのだと教えてくれた。
そして墓地の地図を書いてくれたのだ。
「ここにね、一緒に眠っているの。天国でも一緒にいられるようにってね。お花を持っていくなら赤いお花にした方がいいわ」
「赤ですか」
「カズヤの曲に赤い色の名前が付いた曲があったの、ユウヤはその曲が一番好きだったわ。日本の色の名前で、大好きな色なんですって」
「茜色?」
「そう、それよ!」
「夕焼け空の色の事を言うんですよ。アカネという草で染める色を茜色と言うんですが、漢字で書くと草冠に西、陽が西に傾いたときの空の色を染める草なので、そのように書くんです」
「日本の文字には意味がちゃんとあるのね」
それから彼はパリの外れの花屋で赤い花を見繕って、テイクアウトのコーヒーを買ってここに来たのだ。
ネイビーのコートに銀縁眼鏡をかけた彼は、この場にそぐわないほどクールで知的に見えた。赤い花とコーヒーがとても場違いに映る。
漸く二人の眠る墓を見つけた彼は、そこに仲良く並ぶ二人の名前を見て、安心したようにマノンから貰ったメモをポケットに突っ込んだ。
「斉木、坂田、遅くなったな」
彼は銀杏の落ち葉の上に腰を下ろすと、手にした花を置き、コーヒーの蓋を開けた。
「この前同窓会があってさ。1年B組の迷路の設計図も持って来たんだ。あ、ごめん、お前らの分、コーヒー買ってくんの忘れた」
そう言って、水谷はやっと微笑んだ。
彼の背には茜色の空が広がっていた。
(了)
空が茜色に染まるころ 如月芳美 @kisaragi_yoshimi
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