第5話 フリューゲル
日曜日。坂田は斉木の家にいた。高級マンションの上層階だ。そのリヴィングで、二人はサイフォンで淹れたコーヒーを飲んでいる。
「こんなコーヒー初めて飲んだよ」
「そっか? 俺はいつもこれ」
「コーヒーってこんな味なんだ……ウチはインスタントだし、コーヒーってもんを滅多に飲まないから新鮮」
「あ、嫌いだったか?」
「ううん、そうじゃない。美味しいよ」
坂田は殆どコーヒーを飲まないし、飲むときは砂糖とミルクをたっぷり入れる。その時点で既に子供の飲み物になっている。
だが、斉木は違う。坂田の目の前で豆を挽き、サイフォンで淹れる。その様子をずっと見守っていた坂田には、斉木がとても大人に見えた。カッコいい、素直にそう思った。このコーヒー本来の香りも、ほろ苦い味も、坂田には全て『大人の世界』に感じた。
「スタジオミュージシャンだっけ? お父さん」
「うん。今はアーティストのコンサートツアーにツアーミュージシャンとしてついて行ってる。今日は京都だったかな、広島だったかな。家になんか殆ど居ねーよ」
「お母さんは?」
「俺が小学生の時に離婚した。ウチは父子家庭だよ。殆ど独り暮らしみたいなもんだけどさ。親父が次に帰って来んのはいつかなぁ?」
ゴチャゴチャ喋りながら、斉木は壁一面に並んだ大量のCDから一枚を取り出して、オーディオにセットする。
部屋の隅に大きなスピーカーがあり、後ろの方にもスピーカーが天井から下げられている。
「どこが万単位だよ、もっとあるだろこれ」
「ああ、あるかもしんねー」
「よくすぐに見つけられるね」
「ジャンル別のアーティスト別にしてあるから」
柔らかいトランペットのような音が聴こえてきた。スピーカーが大きくて余裕があるのだろう、そんなに大きな音で鳴らしていないのに目の前で吹いているような感じがする。
「これ、聴いた事ある」
「こないだ言ってたハーブ・アルパートだよ。ファンダンゴって曲。すっげ有名。柔らかいだろ? これがフリューゲルホルンの音だよ」
「へー……」
音楽に全く興味の無かった坂田だが、斉木と一緒に吹奏楽部に入ってから音楽が楽しくなってきている。子供の頃に無理やり習わされたピアノが自分を音楽嫌いにしただけなのだと、今更のように気付く。
「斉木、他に何ができんの?」
「んー……ピアノと、フルート、サックス、トランペット、弦バス、ドラムくらいかな」
「弦バス?」
「コントラバスだよ」
斉木がなんて事無いように言ってのけ、コーヒーを口元に運ぶ。その仕草も坂田には驚くほど大人っぽく映り、とても同い年とは思えなくなるのだ。
「どこで練習してんの?」
「そっちの部屋。完全防音でスタジオになってる。見るか?」
「うん、見たい」
斉木に案内されて覗いたその部屋は、まず入り口のドアから普通ではない。黒いラバーの張ってある大きくて重いドアレバーをガコッという音をさせて開け、もう一枚室内側にある同じようなドアを開けるのだ。二重のドアを開けてやっと室内に入ると、そこにはたくさんの楽器やミキサーが所狭しと並んでいた。
「これ……何」
「え? どれ」
「全部」
斉木は肩を竦めて苦笑いすると一つ一つ説明を始めた。
「こっちは全部シンセ。四台ある。これはモニタ、そこの黒いハードケースが管楽器、えーと、これがテナー、これがアルト、コイツはソプラノ、んでこの四角いのがトランペットな、ここの棚の中はドラムパーツ。ここら辺シンバル、この立ててあんのがスネア、ああ、こっちが弦バスな。これはエレキベース、これが多分エレアコ」
と言いながらファスナーを少し下げて中を覗いている。
「ああ、やっぱエレアコだわ。これは俺のじゃないから」
「うわぁ、スゴ……」
坂田がため息交じりに感想とも言えない感想を述べていると、斉木がニヤリと笑いながら振り返る。
「ここは完全防音だから、ここでリンチや殺人があっても外に音は漏れない」
「いつか斉木にやられそう」
「次お前がここに入った時犯してやるわ。勝負パンツ穿いて来いよ」
「だからお前はホモか」
「あはははは……戻ろーぜ」
「うん」
二人はリヴィングに戻って、ハーブ・アルパートを聴いた。
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