第46話 幻想即興曲

 マノンの用意してくれたパリ郊外のアパルトマンは、公園や森が近くにある自然の豊かな場所に建っていた。世話好きのマノンもそこに住んでおり、若い二人の為に何やかんやと世話を焼いてくれた。買い物に付き合ってくれたり、夕食に招待してくれることもあった。

 何しろマノンは斉木のピアノが好きで、斉木が昼間ピアノを弾いているとアパルトマンの前に椅子を出してきて、近所の人たちとお喋りしながら窓から聴こえてくるピアノに耳を傾けるのだ。

 そんな生活もかれこれ五日目になる。あれから水谷はどうしただろう。山根は。学校は。学校には退学届けも何も出さずに出てきた。無断欠席状態が二週間ほど続いて居る筈だ。

 斉木がそんな事を考えながらショパンを弾いていると、坂田がふと「今日だな」と声をかける。

「何が?」

「文化祭」

「ああ、迷路な」

 複合三部形式の曲は嬰ハ短調から変ニ長調へと引き継がれていく。幻想即興曲、斉木の好きな曲である。

 フリードリヒ・グルダに傾倒している斉木は、彼と同じようにクラシックからスタートしてジャズに手を伸ばしたため、ショパンやベートーヴェンも弾きこなす。勿論即興演奏もお手の物だ。グルダと違うところは、ジャズの方が得意になってしまった事だろう。

「水谷、怒ってるだろうな」

「日本に残れば良かったんじゃないのか?」

「いや、俺は坂田の方が大事」

 甘いメロディを弾きながら視線を送って来る斉木に、坂田は懲りずに背筋を震わせる。

「斉木は楽器を弾いてるとき、必要以上にエロい」

「言っただろ。楽器はエロい気持ちで弾くもんだ」

「……ったく、なんでこれ聴いてマノンはなんとも思わないかなぁ」

「亀の甲よりなんとやらだよ」

 坂田が窓の外を覗くと、近所のおばあちゃんたちが窓の外で椅子に腰かけてティータイムを始めてしまっている。このアパルトマンはすぐ前に芝生を張ったスペースがあって、よくこうやっておばあちゃんたちがお菓子を持ち寄ってはお茶を飲みながらパッチワークをしているのだ。流石にこの時期は寒くなってきているのでパッチワークはしないにしても、それぞれにひざ掛けやストールを準備して、熱い紅茶を飲みながらお喋りに花が咲いている。

 しかも二人が越して来たことで、ここ何日か斉木のピアノの音が響くようになり、おばあちゃんたちの他に赤ちゃんを連れた若いお母さんたちまで集まるようになってしまっている。

 斉木はジャズクラブの方から声がかかれば毎日でも行くことになるし、声がかからなければ仕事は無い。上手い奴だけが呼ばれるというシビアな世界らしい。いかにも斉木の父が紹介しそうな職場ではある。

 坂田はと言えば、マノンの友人が経営しているという外国語学校を紹介してもらい、そこの試験を一発でクリアして日本語の先生として雇って貰えることになった。大学生のような年齢の生徒に、どこから見ても中学生にしか見えない童顔の坂田が先生として教えるのだ。坂田の親が見たら卒倒するだろう。

 こうして二人の新しい生活は順調にスタートしていた。



 その頃、日本では二人が無断欠席を続けていることから、学校側が保護者に連絡を取ろうとしていた。

 だが、斉木の母は離婚している上、父はどこにいるかわからない。坂田の保護者は弁護士を通じて話をし、警察に捜索願を出すことになった。

 既に二人の行方が分からなくなってから二週間経っている。何かの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れ、警察の捜索が始まっていた。

 そんな中にありながら、水谷だけがPCの前で頭を抱えていた。

「お前らが居るのは日本じゃないだろう! どこなんだ!」

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