眠り姫の夢が終わる時

最終話

 医師に付き添われ、姫野と井沢は姫野の母親と面会した。姫野そっくりな顔立ちの女性は、大学生の娘を持つとは思えないほど若々しく、しかし人工呼吸器から漏れ聞こえる息遣いは無機質で、そこからは生気を感じ取ることができなかった。


(眠り姫、か)


 それが井沢の率直な感想であった。




「姫野さんのお嬢さんも、すっかり大きくなられて……」


 姫野の母親を担当する医師は、眼鏡越しにしげしげと姫野を眺めてそう言った。その言葉は単なる社交辞令ではなく、心から姫野の成長に目を丸くしているようだった。


「ええ、ご無沙汰しております」


 姫野が幼い頃は父親に連れられて何度かここに見舞いに来たものだったが、父親を失ってからというもの、姫野は母親に会うことをためらっていた。父親の死を伝えなければならない、しかし伝えたくない、という負い目が心の奥底で姫野を縛っていたからであった。


「そんなに大きくなってないけどな」


 と井沢がツッコむと、姫野は笑いながら肘で井沢を小突いた。そんな様子を、医師も微笑ましく見守っていた。


 姫野が入院している病院と同様、井沢は姫野の保護者ということになっている。旗から見ると年が近く保護者と言うには不思議な関係だが、姫野の両親の事情を知っている医師は何も疑うことはなかった。


「それにしても、まさかこのタイミングでいらっしゃるとは……これも何かのさだめ、でしょうかねえ」




 医師の説明を聞くと、姫野は心底驚いた。それに対し、井沢はあまり動じることもなく、むしろ腑に落ちたという表情で黙考していた。


「お母さんがつい最近一時的に心停止って!? ……しかも昨晩も!?」


 姫野が病院に運ばれた日、姫野の母親は急に容態を変え、生死の境を彷徨っていた。そして23日にも発作が再発していたとのことであった。その時刻はまさに、最初の34回の23日に姫野が急死した時刻とほぼ一致しており、姫野の心不全と何かしらの関係があることが予想された。


「ええ、そして今も不安定な状態が続いており……そもそも意識不明でぎりぎりな状態のまま生きながらえてきたこと自体、かなり奇跡的なことです。恐らく、今日にも亡くなってしまうかもしれません」


 医師がそう言うと、姫野は膝からストンと病室の床に座り込んでしまった。井沢が屈み込んで優しく姫野の肩に手を置くと、姫野は目に涙を浮かべながら、コクリと頷いてゆっくり立ち上がった。井沢が医師に


「でも、どうしてそれを親族の姫野に伝えなかったんですか?」


 と聞くと、医師は申し訳なさそうに眉をハの字にし、


「姫野さんの旦那さん……つまりお嬢さんのお父さんから、そう指示がありまして」


 と答えた。それを聞いた姫野はハッとして、井沢と顔を見合わせた。 医師は当時を思い出しながら、悲しげな面持ちで続けた。


「旦那さんは、何かを決意したかのように、おっしゃっていましたよ。『あの子には、前を向いて欲しいから。辛いことがあっても、先に進んで欲しいから』、と――」




 姫野の父親は、姫野の就寝中に自殺した。


 十勝からそのことを井沢も聞いており、2人は姫野の父親の真意を察した。


 父親が自殺のタイミングに姫野の就寝中を選んだのは、姫野によって巻き戻らせないため。親しい人間の死を目撃したら、心の優しい愛娘は必ず、巻き戻してしまうと確信していたからだった。


 それは母親についても同じで、もし姫野が母親の死期を知ってしまえば、姫野は必ず巻き戻し続ける筈だ。いつかは諦めて前に進むかもしれないが、その頃には姫野の心に深い傷が残ってしまう。そうならないように、父親は姫野に、母親の容態変化を伝えないようにしていた。



 死してなお自分を気遣う父親に、姫野は声を上げて泣いた。




 医師がその場を去り、病室には姫野と母親と井沢の3人だけとなった。しばらくの静寂が続き、辺りには無機質な呼吸音と、機械から定期的に発せられる電子音だけが響いていた。


 シ・ルヴィ教に基いて、姫野にとっての神が姫野の母親だとする。そしてその神が見る夢が、姫野の体感するこの世界ということになる。たまたまその神が、姫野の生誕の直前に意識を失い、現在に至るまで夢を見続けている。その神は、姫野を心から愛し、守ろうとしてしまった。


 そういった幾重もの偶然が重なった結果だろうか、神の願いが叶ってしまい、呪いとも言えるような過保護なシステムが生まれてしまった。姫野の死が、そして神の死が、際限のない夢のやり直しにつながってしまう、バグのようなシステムが。



 ふと、井沢が膝をつき、姫野の母親のベッドに向かって頭を下げた。


「井沢さん!? 一体何を!?」


 驚いた姫野が井沢の身を起こそうとすると、井沢は頭を下げたまま、


「お母さん、結夢さんを、僕に下さい!」


 と言った。あっけに取られた姫野も、クスリと笑い母親の方へ向き直った。


「お母さん。天国のお父さん。私、この人が好きです。この人と、一緒になりたいです。どうか、よろしくお願い致します」




 機械から発せられる電子音に、変化があった。それは、心停止を知らせるものだった。姫野の母親は、肉体の死によって頬の筋肉が緩んだだけなのだろうか、笑顔を浮かべているように見えた。


 ――ズキッ!


 母親の死を引き金に、姫野の胸が激しく痛んだ。恐らくあと少しで、また、この夢が終わってしまう。よろける姫野を、井沢がしっかりと支えて言った。


「姫野……終わりにしよう」


 遠くから、慌ただしく医師達が近付いてくる音が聞こえた。


「うん」


 井沢が倒れ、そして、支えを失った姫野が追うように倒れた。




 ――春が訪れ、辺りは若葉の鮮やかな緑で覆われていた。


 心地よい風は人々の新たな出会い、そして新たな門出を祝い、花の香りを一帯に運んでいった。


「お母さん、行ってくるね」


 白無垢に身を包む少女が、母親にそう告げる。


「ええ、頑張ってね、結夢」


 少女と母親の笑顔が重なると、父親はそっと目頭をハンカチで押さえた。


「あらあら、年かしら? 私は泣かないわよ。結夢と井沢さん……ううん、慶さんが結ばれる、この瞬間をずっと夢に見てきたんですもの」


 母親がそう言うと、父親は照れ笑いを浮かべながら


「ははは、また例の夢の話か? 結夢が生まれる日の朝に見た夢なんて、よく覚えているな」


 と返した。母親は、少女が生まれる日の朝に見た、永い、永い夢を決して忘れることはなかった。母親は笑顔で首を振って答えた。


「ううん、その『夢』ではないの。その夢は、これまでの夢。そして今日から、その夢の続き――」




 少女の視線の先には、皺1つない正装に身を包んだ青年が立っていた。その青年の母親が、目に涙を浮かべて笑い掛けていた。


「ほんと、皺くちゃな服ばかり着てた慶が、よくもまあ……」


 青年も幸せそうに笑い、母親と、寡黙な父親をじっと見つめた。


「2人とも、今日まで元気でいてくれて、本当にありがとう。僕は2人を心から尊敬しているよ。僕達も、2人みたいになってみせるから」


 不意に感謝を述べられた両親は困惑の表情を浮かべた。そして今にも泣きそうだった母親がついに涙をこぼし、寄り添っていた父親がそっと肩を抱いた。


「慶、行って来い」




 この教会の宗派では、神父ではなくシスターが祝辞を述べ誓いの証人となる。そしてたまたまそこのシスターが双子であったため、例外的にシスター2人がその役割を担った。


「「汝らは、その幸福を分かち合い、その試練を分かち合い、互いを尊重し、互いをいたわり、生涯を共に歩むことを誓いますか?」」


 親友や同僚に見守られる中、少女と青年はお互いを見つめ合い、声を揃えてはっきりと宣言した。


「「誓います」」




 童話の眠り姫は王子の口付けで目を覚ます。それは物語の終わりであり、そして新たな物語の始まりであった。




「どうだ? 結夢。生まれた時からの婚約者とようやく結ばれた気分は」


「ふふ、慶さんと一緒になれて、私、とても、幸せです」




 これもまた、1つの物語の始まり――。

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眠り姫の夢が終わる時 するめいか英明 @surume_ika

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