第38話

 姫野の案は井沢から日村と森尾へ、そして森尾からアメリカとフランスの研究所へ伝達された。それぞれのデータと照合した結果、新たな案に目立った矛盾がないことが確認された。


 もちろん現状でこれまでのデータと整合的であるというだけであり、今後更に別のデータが出て法則と反する可能性はあるが、それに関してはどんな法則案を提示しても同じことである。


 ひとまずは姫野の案を旧法則の代替案として3国で採用することで同意がなされた。


 つまり、法則の検証のための再実験、もとい姫野の安楽死は防がれたのだった。




「――それにしても、よくあんな法則を思い付いたものだな」


 翌週の放課後。やや涼しさが感じられる夏の空気の中で、井沢は姫野とベンチに腰掛けていた。


「私のことは私が一番良く知っているんです」


 と胸を張って答える姫野。


「適当な法則を思い付くだけなら偶然ってこともあり得るが、それが全データと整合的な結果を出すとなると、偶然ってわけにはいかないな。いや、おみそれしたよ」


 井沢は素直に感心し、姫野を讃えた。




 井沢は姫野に召集を掛けられる以前から、自分でノートを作り、法則のアイデアを書き並べていた。ただの思い付きだけでなく、これまでのデータから決定可能な情報をいくつも箇条書きにして、かなり厳密に法則の形を特定しようとしていた。


 そのノートは3冊にも渡り、姫野と十勝はそれを少し読み、井沢の本気を目の当たりにしていた。もちろん、姫野と十勝が全てに目を通すことは難しかったので、井沢がそれらをまとめて1時間程度で解説した形だ。


 姫野はそれだけ井沢が自分のために頑張っていてくれたのだと知り、心から嬉しかった。


「僕は今回の件で実験から姫野を救うつもりでいたのに、結局役に立てなかったな。……と残念がるのは流石に自己中心的だな」


 と井沢が本当に悔しそうな顔をするものだから、姫野は少し罪悪感を覚えて、


「いえ、井沢さんの案がいくつもあった上で、あの法則に気付けたんです。井沢さんには感謝しています」


 と慰めた。実際、井沢があの日に出した案は、十勝が巻き戻りの中で20日以上掛けて築き上げたいくつもの惜しい案を含んでいた。姫野が答えを十勝から引き出していなかったとしても、井沢ならそこに到達していたかもしれない。



「そうか? はは、そう言ってもらえると嬉しいな……」


 そう言いながらも、井沢はやはり胸の奥に引っ掛かりを感じていた。


 何故こんなにも悔しいのか、自分でもよく分からなかった。




「何にせよ、改めて私の自由が保証されました! 私はこの自由を謳歌します!」


 姫野はニッコリと笑い、少し照れながらブイサインを井沢に向けた。


 姫野の唐突な行動にキョトンとしながらも、井沢は姫野の天使のような笑顔を見て、


「ああ、本当に良かった……」


 としみじみ呟いた。




 夏が過ぎ、大学の中間試験があった。


 姫野はたまに授業をサボりつつも、井沢が取ったノートや知り合いから譲り受けた試験対策プリントを見てしっかり予習復習をしているので、試験の手応えも概ね良好だった。


 ちなみに井沢には内緒だが、全ての科目で試験日の夜に薬を飲んでいる。そうすることで、試験当日の朝に戻り、試験内容を知った上で追い込みの勉強を集約できるからだ。これは十勝から伝授された、法則の悪用。


 ただ1つ盲点だったのが、事前から難しいと評判だった語学の試験の後、へろへろになったところで次の試験までの空きの1時間、うたた寝をしてしまったことだ。その日の夜に薬を飲んだものの、うたた寝から起床する時点までしか巻き戻らず、結局語学の試験はやり直すことができなかった。


 たまにはそういう失敗もあるものだ。




 秋が来て、鮮やかな紅葉がキャンパスを埋め尽くす。


 衣替えをした井沢がまたボロボロの服を着始めたので、今季のカジュアルな秋服を姫野がプレゼントした。十勝と一緒に洋服屋で3時間も悩んだのは井沢には内緒だった。


 井沢は以前フォーマルな服をプレゼントされたとはいえ、私服をプレゼントされるのは少し気恥ずかしいな、思った。それでも姫野におだてられ、少しずつファッションに気を付けるようになっていった。



 スポーツの秋、ということで井沢が姫野にスポーツをさせてみた。姫野は普段激しい運動はせず、これまでもスポーツらしいスポーツはしてこなかったので、あまり気乗りはしなかった。しかし、嫌々ながらも井沢と一緒に汗をかいてみると、あまり身に覚えのない爽快感があった。


 体を動かすことが得意というほどではない井沢だったが、背が低く運動神経もさほど良くない姫野よりはずっと機敏に球技も水泳もこなし、久し振りに優越感を覚えた。姫野は負けず嫌いなところがあり、何度負けてもめげずに井沢に挑んでいった。



 食欲の秋、ということで姫野は井沢を連れて色々な料理を食べに行った。またこの前のように自由を制限される可能性がいつ沸き起こるか分からないから、と姫野に諭され、井沢はしぶしぶ姫野に付き合って遠出もした。


 もちろん、交通費と食費は金銭に際限がない姫野持ちだ。


 井沢は少しずつプライドが薄れていく自分が不安だったが、あまり気にしなくなった。



 勉強の秋、ということで井沢が熱心に姫野の勉強を見た。井沢の専門は時素を主な対象とする場の素粒子論。即ち物理学だ。最先端の物理学には高度な科学をふんだんに用いることもあり、姫野が講義で学ぶ程度の自然科学なら井沢でも教科書を見ながらある程度は教えることが出来た。


 たまに、井沢と姫野の勉強会に十勝が巻き込まれることもあった。十勝は地頭もよく、井沢が用語や基本的事項から丹念に教えれば着実に吸収してしまった。それは十勝にとっては逆に悩みのタネだった。十勝がいわゆる文系の学生であることを井沢は知らず、そしてそれを十勝が言い出す機会もなく、もはや今更言っても信じてもらえないだろう。


 もっとも、十勝はあまり文系や理系という括りに意味を感じていなかったので、途中からはこれもいい機会だと思うようになり、自分の知らない分野を学ぼう、というスタンスになっていった。




 そして冬が来て、姫野が倒れた。

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