第40話
「――どうした? ぼーっとして」
井沢の声に、姫野はハッと我に返った。
「ううん、ごめんなさい、何の話でしたっけ?」
今日はクリスマス・イブの前日。相変わらずの入院生活だが、体調に目立った変化もないとのことで、明日のクリスマス・イブは午後に少しだけ外出する許可が主治医から下りている。
――話を少しさかのぼる。姫野が入院を始めてからというもの、井沢は姫野のために献身的に尽くすようになった。姫野は少し照れながらも、これまでも大学で井沢に身の回りの世話を任せていた経験から、徐々にその関係にも慣れていった。
「持ってきた衣類、こっち置いておくぞ。はい、鍵」
姫野の指示で姫野の家から衣類を持ってくると、井沢は借りた鍵を姫野に差し出した。すると姫野は顔を背けがちに、
「あ、ありがとうございます。……鍵は、持ってていいです」
と呟いた。少しキョトンとしていた井沢だったが、すぐさま姫野が
「あ、えと! ……その、また何か用事をお願いするかもしれないので」
とゴニョゴニョ言っているのを聞き、
「ああ、確かに僕の外出中に何か用件を思い付いたりしたときとか、電話で頼めるし鍵は持ったままの方がいいか」
と納得していた。
「心拍が弱いってさ。これまで健康診断では何もなかったんだろう?」
井沢が聞くと、姫野も「うーん」と腕を組んで思い起こして見るものだが、特に思い当たることもなく、
「検査で引っ掛かったりした覚えは特にないんですけどねえ……」
と不思議がっていた。
そもそも心不全には何かしらの原因や経緯があって顕在するものだ、と医師は言っていた。
感染症もなく、肉体疲労でもなく、その他もろもろの要因にも該当しないとなると、残すは精神的ストレスによるものか、と推測していた。
姫野は大きなストレスに覚えもなく、その時は聞き流していたが、後で井沢と一緒に考えてみて、1つの結論に辿り着いた。
「人が生涯経験する中で、最も重いストレスって、自分の死、なんじゃないかな」
井沢が何気なく言った一言は、やがて2人の中で確信に変わった。
「そっか……夢とは言っても、リアルの体験をしているんですもんね。……巻き戻って起きた時に感じる罪悪感のような悲しみも、死に直面した時の痛みも、何度繰り返しても慣れませんでした。今でこそ薬で巻き戻せるようになって痛みがなくなってしまいましたが、それでも心は水面下でストレスを溜めていたのかもしれませんね」
そして、井沢は姫野に誓いを立てた。
「以前も言ったことだけど、僕はこれ以上、姫野に巻き戻りをさせる気はない。実験もさせない。たとえ巻き戻るとしても、姫野の死は、僕にとって軽いものではない。悲しいことなんだ。だから、僕は姫野を守る。誓うよ。僕は、これ以上は姫野を巻き込む実験をさせずに、必ず見付ける。君を死なせてしまう方法じゃなく、君を本当に救い出す道を」
井沢の使命は、姫野を死なせる方法を確立すること。巻き戻りのない、絶対的な死。国から、いや、世界から託された、人類の命運を握る、重大な使命。
ところが、井沢は姫野と共に過ごしていくうちに、その使命に疑いを持つようになった。何も、姫野が死ぬ必要はないじゃないか。姫野だって、幸福に人生を謳歌する権利がある筈だ。何故、姫野の絶対的な死以外の道を諦めなくちゃいけないんだ。たとえこれまでの全てのデータが他の道を棄却していたとしても、新たな道を見付ければいいじゃないか。
そう思い立ち、井沢は更に熱を入れて研究に励んでいた。時素の測定誤差検出法の考案、情報エントロピー伝導前後における無スピン電子の粒子的不安定性の提唱、ブラックホールのシュバルツシルト半径付近で発生が予測される時素の振動理論。いずれも姫野の巻き戻りを解明するために姫野を介さない実験と測定と考察を繰り返して副次的に井沢が残した業績だ。その道の第一人者である日村も目を見張る程の発見の数々だったが、井沢はそれらを論文としてジャーナルに投稿することより、新たな研究を遂行することに専念した。それは、研究者としての井沢の目的が、純粋な科学的興味から姫野を救い出すことへ移った何よりの証拠だった――。
「――どうした? ぼーっとして」
井沢の声に、姫野はハッと我に返る。
「ううん、ごめんなさい、何の話でしたっけ?」
そして今日はクリスマス・イブの前日。姫野は楽しかった日々を思い浮かべながら、井沢と病室で過ごしている。
「ケーキの話。結局、僕が4年前に買った店でいいのか?」
井沢が持って来た数々のカタログを、姫野はこれまで穴が開くほど眺めてきた。どれもこれも美味しそうなものだったが、やはり姫野は、初めて井沢と出会った日を思い出し、同じケーキを選ぶ。
「うん。お願いしますね」
しばらく話し込み、明日の予定を確認すると、井沢が帰る時間になる。
「あ……井沢さん」
すると、姫野は井沢を呼び止める。言わなくてはいけないことがある。
「何だ?」
井沢は、呼び止められた意図が分からず、じっと姫野を見つめる。
姫野はそんな井沢を見て、胸が締め付けられるように痛む。
「ううん……明日は、いっぱい楽しみましょうね」
姫野がそう言うと、井沢は本当に嬉しそうに頷く。
「……ああ!」
また、言うことができなかった。
その日の夜。
姫野は亡くなった。
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