第22話

 井沢は姫野に自由を謳歌させようと思うあまり、自分の姫野への接し方がよそよそしくなっていることに気付いていなかった。そして姫野の心の機微を感じ取れるほど、井沢は敏感な男ではなかった。


 次の日も、その次の日も、井沢の態度は変わらず、姫野は次第に笑顔を減らしていった。それを裏目に感じ取った井沢は、更に姫野へのよそよそしさに拍車を掛けていった。


「今日も終わりですね」


 姫野がそう言うと、井沢は「そうだな」とだけ返す。


「この後、買い物に付き合ってくれませんか?」


 と姫野が唐突に申し出ても、井沢はすんなり「いいぞ」と従う。


「やっぱりやめました」


 と姫野が言っても、井沢は笑顔で「分かった」と返す。姫野に嫌な想いをさせないように、と必死に振る舞う井沢の様子は、姫野にとって、下僕か人形か何かのようだった。せっかく気の許せる友達になれたと思っていたのに、井沢が勝手に距離を置き始めた。そんな風に姫野は感じ取っていた。




「何? 話って」


 開口一番、森尾が問い質した。


「ん、とね……」


 姫野は科学災害対策本部の特別棟地下、日村研に足を運んでいた。姫野が日村研を訪れるのは、井沢と初めて会った日以来である。そして2人は、あの日井沢達が使った、2重扉の防音室に入っていた。


「香織はさ、最近、元気かなー……って」


 椅子に座った姫野が目を逸らしながらそう返すと、森尾はスタスタと歩いて姫野に寄った。


「本題に入りなさい」


 ピシャリと言い放たれた森尾の言葉に、姫野は肩をすくめて頭を垂れた。長い付き合いである分、簡単に心を見透かされてしまった。


「えっとね、その……」


 姫野がしばらく言い淀んでいると、森尾は姫野の前の椅子を引き、静かに腰を掛けた。そして姫野の目をじっと眺め、言葉を待った。


「あと、だから……」


 それでも目を逸らし、尚も言い淀む姫野に、森尾はついにしびれを切らし、核心に踏み入った。


「……井沢さんのことでしょう?」


 井沢が「矛盾」を見出した日以来、森尾は井沢に一度しか会っていない。3国の主張を井沢に報告し、日本政府の意向と日村研の意向を確認した日。井沢は日村と森尾の前で、誓いを立てた。


『その日まで姫野に幸せな毎日を送らせてあげたい』


 その矢先が、これである。相談があると姫野に呼び出され、防音室まで借りさせられて、憂いの表情を見せられる。幸せな毎日とは程遠い姿だった。間違いなく、井沢の目論見が破綻している。そう森尾は確信した。


「はい……」


 森尾の口から井沢の名が挙がった時、姫野は肩をビクンと跳ね上げた。そして観念したかのように肯定し、ようやく覚悟を表情に示した。


「私……井沢さんに……」


 そして森尾が黙って見守る中、姫野はとうとう、その悩みを打ち明けた。


「嫌われちゃったんじゃないかなって……」




 そして、沈黙が場を制した。


「は?」


 しばらくして、森尾が呆れた顔で、姫野を見やった。当の姫野は、俯いてうなだれたままであった。若干肩が震えていることに気付き、森尾は優しい口調で聞き直した。


「結夢、わけを話してくれる?」




 ――そして数分後、森尾は深く溜息をついた。


「……結夢って、馬鹿よね」


 それを聞き、先程までうなだれていた姫野は、声を荒げて問い質した。


「はあ? どういう意味よ!」


 しかし森尾は無表情を変えることなく、もう一度溜息をついて呟いた。


「そのままの意味よ。まあ、馬鹿なのは井沢さんも同じ、か」


 頭に疑問符を浮かべる姫野を他所に、森尾は淡々と話し始めた。


「人使いが荒いせいで嫌われていると思うなら、結夢の指示を文句1つ言わずに律儀にこなしてるのは変でしょう? あなたが人使い荒いのはとっくに慣れっこな筈よ。私は井沢さんとあなたが2人でいる時の様子を見たことはないけれど、井沢さんが結夢のことを嫌っていないことは保証できるわ」


 森尾の正論を聞き、姫野はウッと言葉を詰まらせた。更に森尾の保証という言葉を受け、更に疑問符を頭上に掲げた。そして口を拗ねるようにすぼめて言った。


「……何で香織が保証できるわけ?」


 それに対し、森尾はちょっと考える仕草をし、黙り込んだ。井沢と日村の間で決めた、姫野には「矛盾」のことや3国の意向の不一致のことを教えないということ。そのせいで、森尾には姫野を納得させる回答を用意できなかった。それでも、これだけは伝えようと思った。


「誓ってたわよ、私達に。『結夢を幸せにする』って」




 ――ガシャン。


 すると姫野が顔を真っ赤にして、椅子から転げ落ちた。

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