第23話
「……おほん。さあ、今日も講義に行きましょう」
姫野はいつも通り喫茶店で井沢と待ち合わせて、一息ついたところで席を立った。
「……? ああ」
「――以上でP軌道の電子間の相互作用を記述することが出来たわけだが~、2粒子系の波動方程式の計算は試験に出すつもりなので各自別の例でも手を動かしておくように」
講義が終わり休み時間になると講義室がざわめき出し、姫野は慌てて席を立った。そして、そそくさとバッグを持って移動を始めた。
「……さ、次の講義室へ向かいましょう!」
井沢に背を向けたままそう言ってズイズイと歩いていく姫野に、井沢は首を傾げて言った。
「次は体育だろう? 今日は座学ではないから、講義室ではなく体育館で見学だ」
姫野はハタと立ち止まった。表向きは身体的な事情で学習支援員をつけていることになっている姫野は、スポーツ系の講義を見学することになっている。
「そうですね、あははうっかりしてました。いやあ、いけませんね」
そう言うと、姫野は引き返し、またも井沢から目を逸らしながら早足で歩いていった。
「……?」
「今日も暑いな。何か飲み物を買ってこようか?」
後の休み時間に井沢が提案すると、姫野は両手を広げ胸元に掲げ、大げさに振って見せた。
「いやいやいや、それは悪いですよ。あ! そうです、私が買ってきます!」
そして井沢の返事を聞く前に、姫野はピューッと歩いて行ってしまった。
「え……?」
「――おい、姫野」
そして全ての講義が終わったところで、井沢は姫野に声を掛けた。
「……ふぇ?」
ぼーっとしていたのか、姫野は不意に声を掛けられて、変な声で返事をした。
「もう講義終わったぞ」
井沢の言葉を受け、姫野は慌ててキョロキョロと周りを見渡した。講義を履修している学生達がぞろぞろと講義室を後にしており、教員の姿はとっくに見当たらなくなっていた。
「……あはは」
ごまかすように笑いながら、姫野は筆記用具をしまっていった。それを見て、井沢は真面目な顔で呼び掛けた。
「姫野」
すると姫野の動きがピクンと止まり、目線はバッグに置いたままで返事をした。
「ええと……何かしら?」
それに対して井沢はじっと姫野の横顔を見つめ、恐る恐るといった口調で、姫野に問い質した。
「もしかして……どこか体調が悪いんじゃないか? 今朝から様子もよそよそしくて変だ。何か、つらいこととか、悩みとか、あるんじゃないか? 僕で良ければ、相談に乗るぞ?」
それを聞いた姫野は、カッと目を見開いて井沢に向き直り、顔を真っ赤にして大声を上げた。
「よそよそしくなんてしてません!!」
ガランとした講義室に、その声は響き渡った。講義室を出ようとしていた最後の数人が2人をチラリと見たが、特に気にも留めずドアから出ていった。しばらく静寂が流れた。
「……すまない、それならいいんだが」
井沢もあまり聞くのはデリカシーがないと思い、気にしないことにした。姫野にだって調子が悪い時や、機嫌の悪い時もあるだろう。何か困ったことを相談してくるようになれば、その時には全力で力になればいい、と思った。
しかし姫野はというと、息を荒くしてじっと井沢を見つめていた。顔も赤いままで、目は涙を浮かべているように潤んでいた。そして息を整えた後、堰を切ったように井沢にまくし立てた。
「なーにーが『それならいいんだが』よ! 全く良くないわよ! 本当にデリカシーがないわね! レディが何か悩んでそうと思ったなら、ちゃんと最後まで気に掛けなさいよ! 興味がないような態度を取られたら傷付くでしょ? 役に立てないかもしれないと思っても、もう少し深く掘り下げて親身に話を聞いたり心配の言葉を掛けたり、何かないの?
そもそもね、『よそよそしくて変』ってどの口が言うわけ?! 井沢さんは自分の態度を動画で撮って自分で見てみたら?! よそよそしいもよそよそしいで何なのその他人行儀! せっかく仲良くなれたと思ったのにあんまりじゃない! 急に距離を置いてどういうつもりなのよ! 何か怒らせるようなことしたんじゃないか、とか人使いが荒すぎて愛想を尽かされたんじゃないか、とか嫌われたんじゃないか、とか色々考えちゃったじゃない!
香織に相談しても馬鹿にされるわはぐらかされるわで! あー、もう思い出したらまたムカムカしてきた! 何で私が井沢さんのためにあんな恥をかかなくちゃいけないわけ! 香織も香織よ! 自分だけ大人ぶって、私のことはいっつも子供扱い! 私だって悩みの1つや2つはあるわよ! あっていいでしょ! どうせ香織だって、悩みとかあったとしても体重が気になるとか皺が増えたとかそういうカッコ悪いネタに決まってるわ!
何より原因は井沢さん! あなたの意味深な発言じゃない! 香織と日村に言った意味は何よ! 『何が?』じゃないわよ! わ、わ、私を、その、い、『一生幸せにする』って! ど、ど、ど、どういうつもりなのよ!」
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