姫野と友達
第11話
今日も暑い。井沢はワイシャツの首元を指で摘み、パタパタと風を扇ぎ入れていた。そんなだらしない様子を見かねた姫野は、井沢の仕草を静止した。姫野も、人目さえなければトップスの中に風を送りたいのに、と内心では思っていた。
「井沢さん、あなたはアウターがワイシャツ1枚だけだからまだいいでしょうけど、私はキャミレイヤードシャツなんですよ。体感ではこっちの方が暑いんですから少しは我慢して下さい」
今日は平日。姫野は井沢と大学の古びた講義室に待機しているのだが、設備にガタが来ているのか、冷房はかすかに利いている程度である。休み時間が終わって講義の時間になれば教員が冷房を強めてくれるだろうか、と期待してはみるものの、先週もそこそこの暑さだったことを思い出した。周りの人々もまた、手をうちわのようにして扇いだり机に伏したりしてわずかばかりの冷気を得んとしているが、その光景もまた暑さの体感を増させていた。姫野が時計を見ると、さっき時計を見てから1分も経っていなかった。講義開始まで後3分もある。元々暑さに弱い姫野は何とか平静を装っているものの、さすがに限界が迫っていた。
「ね、ねえ、井沢さん……」
姫野は額に汗をにじませながら、媚びるように井沢に微笑みかけた。井沢は飲み物のパシリかと思い財布を探ったが、姫野の真意は違った。買いに行かせても、戻ってくるまでに帰りたくなる。ならば買いに行かせずに、そのまま帰ることにしたのだ。
「はあ~生き返る~」
冷房が心地良く利いた食堂に移動してグレープジュースを飲み干し、姫野はとてもご機嫌そうに復活した。もっとも、買ってきたのは当然井沢だが。
「いいのか? 僕まで連れ出して。姫野だけ体調不良ということにして僕を置いておかないと、欠席扱いだぞ」
前までの姫野なら「私は少し涼んできますのでノートをよろしくお願いします」と言い残し、自分を置いて一人で涼みに行っていただろう、と井沢は思った。わざわざ飲み物を買って来させるためだけに自分を同伴したとは考えにくかったので、少し意外な流れであった。
「ええ、あの熱気は人の住む場所ではないです」
別に住むわけではないが……と井沢は思ったが、あの部屋で講義に出なくて良いならそれに越したことはない。一応自分の身を案じてもらっているのだと思うと、悪い気はしなかった。もちろん、自分に体調を崩されるともろもろの雑用をこなす要員がいなくなって姫野が困るからだろうが、と井沢は納得した。最近の姫野は井沢をそこそこ人間らしく扱うようになったが、それでも人使いの荒さは相変わらずだった。
井沢も冷房の涼しさに心を休めつつ、もう少し涼しいとちょうどいいかな、と考えていると、突如、少し離れた後方から、女性の悲鳴が空気をつんざくように響いてきた。
「きゃーーー!!」
何か事件だろうか、と井沢が声のする方へ振り返り身構えると、今度は井沢のテーブルからも同様の悲鳴が上がった。
「きゃーーー!!」
井沢がびっくりして振り向き直すと、二度目の悲鳴の主は姫野であった。一体何事だろうか、と思うと、姫野は眩しい笑顔で席を立った。それも絶叫しながら。
「ゆぅぅぅめぇぇぇ!!」
井沢がせわしなく体を捻っては姫野の行く先を見やると、今度は一度目の悲鳴の発生源と思しき女性、姫野と違って標準的な背丈でショートヘアの女子学生、が姫野に呼び掛けていた。
「ゆぅぅっちぃぃぃぃ!!」
姫野もまた、相手の名前らしき呪文を腹の底から捻り出す。お互いがお互いの手を取ると、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねながら回り出した。何だ。何だそれは。何の儀式だ。と井沢は思いながら呆然と見守った。
「久しぶりぃぃぃぃ! 結夢と全然会わないから大学に来てないんじゃないかと思ってたよぉぉぉぉ! ねえねえ元気にしてた?」
ゆぅぅっちぃぃぃぃと呼ばれたその子は、久々の再開を喜びながらまだ姫野と回る。ぐるぐる回る。何故回る必要があるのか、解明できれば論文にできそうだと井沢は思った。
「うんうんー! すっっっっごく元気! ゆっちこそどうなのよぅ、もう、もう!」
姫野がテンションを高ぶらせながらツンツンと女の子をつついた。爆発した時の姫野や、外行きの姫野以外にも、こういう姫野があるのだな、と井沢は感心した。
「元気元気ぃ! 結夢に会えて更に元気になったよもー! いるならいるって言ってくれないと、心臓飛び出るかと思ったじゃん!」
姫野のツンツン攻撃を片手のひらで受け止めながら、女の子はもう片手でトストスと姫野の二の腕を軽く叩いた。二人はとても仲が良さそうで、二人の会話はしばらく続いたが、元気に楽しく過ごしていることと久しぶりで嬉しいということが定期的に反復されるのみで、そこから井沢が拾える情報はあまりに少なかった。ただ一つ、井沢が現状を分析して気付いたことがあった。
(この空間、とてもつらい)
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