第10話

 あれから数日が経ち、井沢は学習支援員の名の下で、姫野の大学生活における雑務をこなしていった。しかもそれは大学のある平日だけのことでなく、休日であろうと容赦なく呼び出しの電話が鳴っていた。表向き上は姫野が虚弱体質ということになっており、それを理由に姫野は身の回りのあれこれを井沢に押し付けていた。


「ちょっと貧血のようです。申し訳ありませんが私は涼しい部屋で休みますので授業にそのまま出てノートを取って置いて下さい」


「今日は体調が優れません……。暑さのせいでしょうか、喉が渇きました」


「最近、日中の血糖値が低いようなのです。何か甘味をいただかなくてはいけないようで」


「新作の化粧品を買いに行きたいのですが、あいにくドラマを見ないといけないので……いえ、録画では意味がないのです」


「コンビニに荷物が届いていると思いますので、うちまで運んでおいて下さい」


「肩がこりました……」


 井沢は何度も不満を口にしようと思ったが、相手は子供、相手は子供と自分に言い聞かせて耐えていた。何しろ、この仕事は日村研の守秘研究のためにしかたないのである。それにこの表向きの業務だけでも相応の収入が与えられている。正直裕福ではない家庭に育ち、博士号を取るまでにそこそこの借金をしてしまっていた井沢にとって、今は我慢の時であった。


 しかし、そんな井沢の堪忍袋も、とうとうプツリと音を立てて切れてしまう日が来た。それはうだるような炎天下の土曜日の午後、前日に半ば強引な約束を入れられて、井沢が姫野の買い物に付き合って荷物持ちをさせられていた時だった。


「ああ、それと、井沢さんの衣類は私が片付けておきました」


 唐突な申し出に、井沢は理解が追い付かず目を丸くした。別に姫野の家に潜り込んで衣類を置いているわけでもなければ、井沢の家に姫野を上げているわけでもない。というか上げようとしたら、どうせ汚いから嫌ですだの何だの言って断られたのである。「は?」と言葉を返す井沢に対し、姫野の放った言葉は絶望的なものであった。


「あれだけ言ったのに、たまにボロボロの服を着て来るんですから」


 井沢は顔面から血の気が引くのを感じた。姫野の顔をチラリと覗くと、笑っているようで笑っていない。以前初めて服を買ってもらった時の顔だった。そんな姫野の静かな怒りに内心ドキッとしながら、井沢は姫野の真意を探った。


「え? でもどうやって……それに片付けたって一体……」


 すると姫野は、井沢に聞こえるように耳打ちで小さく「お金で解決した」と告げた。控えめに「うふふ」と笑い声を漏らすそのあどけない顔は、同世代または中高生の男達にとっては天使のような微笑みに見えるだろうが、井沢にとっては悪魔のものにしか見えなかった。


「え、片付けたって、え?」


 明らかな動揺を見せる井沢に対し、姫野は黙ってジェスチャーを見せた。袋に何かを詰め込む仕草。袋の口を縛る仕草。ぽーいと投げ捨てる仕草。そしてバイバーイと手を振る仕草。ちょろっと舌を出している。


「今日みたいな休日は大学がないから各所の研究施設やら研究集会やらを回ってるんでしょ? だから待ち合わせの時間までの間に~」


 姫野は両手を頭の後ろに回し、わざとらしく道端の小石を蹴った。全く悪びれもない表情に、井沢は口角泡を飛ばして感情をぶちまけた。


「あ、あれはなあ! 亡くなった母さんが買ってくれた大事な服なんだぞ! そりゃもうボロボロだけどな、大学入学祝いだとか成人祝いだとか、卒業祝いだとか進級祝いだとか、別にいいって言ってるのに買ってくれた、思い出の服なんだ! 何かと理由を付けて買ってくれて! 正直当時はうんざりしてたけど、今となっては母さんの形見みたいなものなんだよ! 着るなっていうのは分かるけど、勝手に捨てることはないじゃないか!」


 すると今までしたり顔でにやけていた姫野は、突然の噴火に驚いたようで言葉を失っていた。はあ、はあ、と息を荒げる井沢が落ち着きを取り戻すと、ようやく姫野が言葉を発した。


「ごめ……んなさ……私そんな……知らずに……お母さ……亡くしてたなんて……」


 姫野は、涙を流していた。顔を覆うでもなく、白昼の往来の中で、一人の女の子が、ただ泣いていた。正直「マザコンはキモいです」と一周される絵が目に浮かんでいただけに、まさかあの高飛車な姫野がこんなに素直に非を認めるとは思っていなかったため、井沢は完全にうろたえてしまった。周囲の目線が二人を痛々しく見守る中、姫野はぽつりと呟いた。


「私と同じなのね」


 井沢が聞き返そうとすると、視界がぐにゃりと歪んでいくのを感じた。目の前で姫野が倒れた。喧騒が湧き上がりつつかすれていく。世界が白んでいく。姫野の手には錠剤を入れたケースが握られているのが見えた――




 井沢は何度も不満を口にしようと思ったが、相手は子供、相手は子供と自分に言い聞かせて耐えていた。何しろ、この仕事は日村研の守秘研究のためにしかたないのである。それにこの表向きの業務だけでも相応の収入が与えられている。正直裕福ではない家庭に育ち、博士号を取るまでにそこそこの借金をしてしまっていた井沢にとって、今は我慢の時であった。


 しかし、そんな井沢の努力も、報われる日がないわけではない。それはうだるような炎天下の土曜日の午後、前日に半ば強引な約束を入れられて、井沢が姫野の買い物に付き合って荷物持ちをさせられていた時だった。


「井沢さん」


 やけに今日は大人しいな、と井沢が思っていると、姫野がこれまでに見せたことのない優しい笑顔を向けていた。


「ボロボロの服、出来るだけ着ないで欲しいのですが、似合ってるとは思います。大事にしてあげて下さいね」


 それは、作り物でも外行きでもない、本物の笑顔だった。その屈託のない笑顔を見て、井沢には「天使」という言葉が頭をよぎった。というのもこれまで何度も「悪魔」という言葉がよぎっていたための対比に過ぎないのだが、自分よりずっと年下に見える女の子の笑顔を見て、何の捻りもなく「天使」と感想を抱いてしまったことに、井沢は我ながら恥ずかしくなって顔を背けた。


「そ、うか?」


 しかし作り物の笑顔や悪魔のような笑顔と違って、こういう笑顔も出来るんじゃないか、と井沢は感心した。たまにはいいな、と素直に思った。それと同時に「大事にしてあげて下さい」という言葉に引っかかりを覚えた。何故あの服が人からの贈り物だと気付いたのだろう? その答えを、井沢は知ることはないだろう。

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