第8話
(暑い)
井沢は心の中で愚痴をこぼした。人の波に身を預けざるをえない都心部、暑さの中には単なる気温由来の不快感だけではなく、周囲との近さ由来の不快感が混ざっていた。通学や通勤で慣れているものの、それは不快感をやり過ごすことに長けるだけである。不快感そのものを感じなくなればどんなに楽だろうか。
しかしそんな人の往来も、一度道を外せば、まるで物語の一部を切り出したような静寂に出くわすことがある。もちろんそれはまやかしの静寂で、耳を澄ませば遠くから人の声や車のエンジン音がやかましく耳に入ってくる。それでも、人通りの少ない道へと逃げることは、一時の安堵へと繋がった。
(ふぅ……)
たとえまやかしの静寂であっても、人通りの少なさ自体が井沢の心を開放的にさせていた。それくらい、炎天下の人混みは人の心をげんなりさせるものである。しかし、井沢の胸中には気掛かりなことが1つだけあった。
(何で服なんか……)
心の中の愚痴は行き場をなくし、自分から自分へと反芻される。井沢は気乗りのしない頭を愚痴で鼓舞するかのように、何度も何度も同じようなことを回想していた。そんな努力が功を奏してか、井沢の体感的にはそれなりに短い時間で目的地に着いた。
「あ、おはようございます」
汗だくの井沢を迎えたのは、大人向けの大きな日傘を持った女の子だった。とは言っても、女の子は炎天下の外で待つような自傷行為をするわけもなく、粛々と店舗の中でくつろいでいた。
「おはよう、姫野」
姫野が時計を確認すると、集合時間にはまだ5分あった。「じゃあ行きましょうか」とだけ言い、姫野はエレベータへ爪先を向けた。腑に落ちない顔で井沢もそれに続く。エレベータ前には店員が待機しており、二人が辿り着くと同時にエレベータの開閉ボタンを押した。姫野が軽くお辞儀をして乗り込み、井沢もそれに倣った。
「どのフロアをご利用でしょうか?」
清潔な身なりをした店員が背筋を伸ばして井沢に聞いた。それに対する返答は、斜め下の方から聞こえてきた。
「7階の紳士服のフロアでお願いします」
姫野を井沢の娘か歳の離れた妹と判断していたのだろう、店員は姫野が答えたことに少し虚を疲れたが、その心中を一切表に出すことなく「了解致しました」と返した。しばしの沈黙の後、エレベータがゆっくりと停止して軽快な合図を鳴らした。
「7階、紳士服のフロアでございます」
姫野がお辞儀をしてエレベータを降りると、やはり井沢もそれに倣って軽くお辞儀をした。エレベータの周りには3人の店員が待ち構えており、早速あれやこれやと井沢に話し掛けた。井沢が返答に困ると同時に、いやそれより少し早く、姫野がそれに応じていった。
「はい、今シーズンのスタイルでお願いします。来週からすぐに必要なので。そちらの紺はストライプが少しきついので、こっちの明るめの方にサイズはございますか?」
あまりに手慣れた様子に、井沢は心底感心していた。というより、井沢はこういう店に来るのが初めてであり、何から何まで分からないことだらけであった。
「それではお客様、計測を致しますのでこちらへ」
自分と同じくらいの若さなのに一流のホテルマンのような振る舞いの店員に声を掛けられ、井沢は何やら自分が惨めな気がしつつも「はい」とだけ返した。計測とは何だろうか、もしかして服を脱がないといけないのだろうか、と思考を巡らせる井沢に反し、こういう客にも慣れているのか店員はテキパキと作業を進めていった。
「カードで」
井沢が呆けている間にも全ての工程が終わったようで、井沢が気付いた頃には姫野が会計を済ませていた。びっくりした井沢は財布を探しながら「ちょ」と声を掛けるも、レジに表示された金額を見て思考を停止させた。
(この子は……一体何を買ってしまったんだ……?)
そんな井沢を見てクスリと笑みをこぼし、姫野はスタスタと店を後にした。それに続く井沢の背中は何とも小さく、滑稽だった。
「ありがとうございました」
店員が何人か並んで、姫野と井沢を見送っていた。しかしそんな言葉も、先程の金額に呆然としている井沢の耳には全く届いていなかった。
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