姫野と運命

第41話

 クリスマス・イブ前日の朝。


「姫野、朝だよ」


 姫野はいつものように目を覚まし、身を起こさずにボーッと井沢の顔を眺めた。


 井沢はいつも姫野が起きるより前に病室へ来て、窓のカーテンを開けて朝日を入れたり布団を掛け直したり散らかっているものがあれば片付けたり、色々と世話を焼いてくれている。


「姫野がこんなに朝弱いなんて知らなかったな」


 聞き慣れた井沢の言葉に、姫野は特に反応するわけでもなく、辺りを目で見渡した。


 変わらない景色。


 不意にこみ上げてくる涙をこらえ、姫野は小さくあくびをしてごまかした。


「はは、まだまだ寝足りないって感じだな」


 井沢の笑顔は、相変わらずだった。




 ベッドを仕切るカーテンを閉めて井沢に少し出ていてもらい、着替える。カーテンを開けて、顔を洗いに行く。一番近い洗面所の手前の蛇口はお湯が出にくいので、その隣の蛇口を使う。


「おはよう、姫野ちゃん」


 他の入院患者のおばさんが声を掛けてくるので、姫野は笑顔で会釈する。


「うーん、なかなかお湯に変わらないわねえ……昨日はそうでもなかったのに」


 冷たいままの水に指をチョイチョイと付けて眉をひそめるおばさんをよそに、姫野は顔をタオルで拭きながら洗面所を後にする。




「おかえり。朝食のいい匂いがするな」


 ほのかに朝食の香りが鼻孔をくすぐる。


 今日のご飯はブロッコリーがとてもおいしい。


 井沢が手を差し出してくるのでタオルを渡すと、井沢はそれをビニール袋にしまって洗濯用のカゴに入れる。


 ――コンコン。


「入りますね~」


 年配の女性看護師が、朝食を持って部屋に訪れる。


 ノックから部屋に入るまでの時間差はあまりないので、ノックの意味はあるのだろうか、と以前井沢が姫野に冗談交じりで話題にしていた。


「どうも、お邪魔してます」


 井沢が看護師に会釈をすると、看護師は恰幅の良い笑顔で


「はいどうもー、こちら朝食ですよー」


 と答えた。看護婦は少しだけ井沢を見つめた後、姫野に


「いつもお見舞いに来てもらってていいわねえ~」


 と冷やかした。一応井沢は姫野の保護者という扱いだが、名字も違えば年齢も若過ぎる、ということで少し看護師達の間では噂になっている。


「……ええ」


 と姫野が遠慮がちに笑うと、井沢は少し引っ掛かりを覚えた。


(……?)




「姫野は、退院したら行きたいところとかあるか?」


 時は過ぎ、昼下がり。身を起こしながらも肌寒い空気に震えて布団を胸元まで覆わせている姫野に、井沢が問い掛ける。


「ん……分かんない」


 と姫野が返事をすると、井沢は


「まあ、そうだよな。色んな所にもう行ったし」


 と笑い掛ける。そう言いながらも、いつの日か行くだろう何処かへ思いを馳せているようだった。


 思い返すと、この秋は2人で本当に色んな所へ行った。


 この冬も、入院さえしなければもっと知らない場所へ行っただろう。


 そして春が来て、桜が舞い、大学は新入生で溢れ、サークルや部活はオリエンテーションや説明会で大忙し。そんな新歓ムードの中を、新入生でも勧誘側でもない2人はのほほんと闊歩しただろう。


 花見もするだろうか? さすがに花見は大人数でするものなので、日村研のメンバーで? いや、日村研と井沢は公の場で会ってはいけないのだった。守秘研究をしている以上、井沢は日村研と他人として振る舞わなければならないのだ。だとすれば、十勝と3人? それは流石に侘しいので、賑やかしに坂道姉妹でも呼ぶかもしれない。


 また暑い夏が来る。姫野と井沢が初めて会話したのも夏だ。思えば、2人が知り合ってからまだ1年も経っていなかった。最初の夏はあっという間に過ぎてしまったので、ショッピング程度しか2人では行っていなかった。十勝と2人で海に行ったものだが、来年は井沢も加えて3人で行くだろうか。


 そういえば、季節に関係なく映画館や遊園地、動物園のような、いわゆるデートスポットには2人で行ったことがなかった。それもそうだ、2人は恋人ではない。ただ、いつかはそういったところに2人で遊びに行くだろうか。


 いつかは――。




 それはあくまで、仮定の話。


 現実の姫野は、この冬に入院してしまった。退院のめどは立っていない。何故なら、多少病状が安定したところで、日米仏の政府が絶対安静を命じているからだ。もしかしたら冬が過ぎても、春が来ても、夏が来ても、退院の許可は下りないかもしれない。


 だけど、それすら仮定の話。


 そんな未来は、永劫訪れないだろう。


 だって、姫野は、今日、死ぬから。


 それを姫野は知っており、そして、誰にも言い出すことができなかった。




「――どうした? ぼーっとして」


 井沢の声に、姫野はハッと我に返る。また、恐ろしいことを考えてしまった。


「ううん、ごめんなさい、何の話でしたっけ?」


 姫野は、ただ、怖かった。井沢に相談しても、どうしようもないんじゃないか、悲しませるだけじゃないか、絶望されるんじゃないか、咎められるんじゃないか、嫌われるんじゃないか。


「ケーキの話。結局、僕が4年前に買った店でいいのか?」


 もちろん、どんな反応をされても、巻き戻れば井沢は忘れるだろう。


「うん。お願いしますね」


 だけど、姫野は忘れることができない。


 井沢が悲しむとしたら、絶望するとしたら、咎め、怒りの矛先を自分に向けるとしたら、嫌われるとしたら。


 その思い出は、永遠に姫野につきまとう。


 文字通り、永遠に。


 何度巻き戻っても、その思い出は胸に刻まれたまま。


 何度も目覚め直し、何度も悲観にくれる1日を繰り返す。


 何度も、何度でも。


 それは、ひどく恐ろしく。


 姫野から真実を井沢に打ち明ける勇気を奪うには十分だった。




「――姫野」


 ふと、井沢が姫野の名を呼んだ。姫野は、少し驚きの混ざった目で井沢を見つめた。もう井沢が帰る時刻も近い筈だが、このタイミングで新しい話題など、これまでにあっただろうか?



 そして、井沢の口から発せられた予想外の言葉に、姫野は背筋を凍らせた。




「今日は、何回目の今日なんだ……?」

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