第9話

「で、何なんだ」


 少し歩いてレストランに入った姫野に、相変わらず後を追うだけの井沢が切り出した。するとレストランの店員が水とメニューを持って来たため、姫野はデザートらしき名前を二人分注文した。


「説明した通りです。あなたには『それなり』の格好をしていただきたいので」


 ニコリと笑う姫野の表情には、どこかトゲがあった。何だか少し怒っているようだな、と井沢は焦った。何か怒らせるようなことをした覚えはないのだが、適当に謝るのも失礼に当たると思ったので、気にしないことにした。


「しかし、あの値段はちょっと……」


 言葉を濁す井沢に対し、姫野は「お構いなく」とだけ返した。しかし井沢は、構う構わないの問題ではなく、そんな金額を立て替えてもらっても払えないということに心配していた。


「いや、そうじゃなく、僕の給料じゃとてもじゃないけど払えないんだって」


 すると姫野は口先をすぼめて、首を傾げた。何を言っているのでしょう?という声が聞こえるかのようで、井沢は子供相手に大人気なくイラッとしてしまう自分を感じた。いや、相手はこんな見た目でももう大学生なのだから、大人げないこともないか、と井沢は心の中で自己弁護した。


「いえいえ、これは私からのプレゼントです。受け取ってもらえませんか……?」


 先程カードで支払っていた姫野の姿を、井沢はありありと思い出した。そしてプレゼントするという発言。どこまで本気なのだろうか。姫野はお金持ちのお嬢様だったのだろうか? そんなことを考えていると、井沢は1つの可能性に思い至った。


「あ、分かった、さてはこれを夢にし……」


 そこまで言い掛けて、井沢は口をつぐんだ。うっかり外で夢の話をするところだった。そんな井沢を見て、姫野はほんの少し呆れ顔で溜息をついた。


「いいえ、『ちゃんとした』プレゼントです。正直、先日のような格好で私の支援員をされるのは……その、恥ずかしいですから、それなりの格好をしていただきたいと思いまして」


 外での姫野はとても慎重に言葉を選んでいるようだった。その分だけ、井沢には姫野の爆発が予想された。恐らく、この前の説教の時のように、心中では言いたいことをいっぱい抱えているのだろうな、と思って生唾を飲み込んだ。


「お金のことなら気にしないで下さい」


 井沢は「姫野の夢」を思い出した。あの日、初めての巻き戻しを経験した日。井沢は2つの夢を見た。1つは、自分が撃たれ、毒で安楽死させられる夢。今思い出しても撃たれた胸が痛む。もちろん現実で撃たれたわけではないのだが。


 もう1つは、姫野の夢。携帯機からアイドルか何かの歌声が流れ出し、もぞりと起きる。目覚まし時計の代わりのアラームなのだろう。寝返りを打ってから少し目を閉じたり開いたりし、もう一度寝返りを打っては覚悟を決めて状態を起こし、ゆっくり伸びをして、ちょっとボーっとして、もう一度伸びをして、またボーっとして、名残惜しそうにベッドから這い出る。乱れたパジャマを直し、……ってそこまで細かいことを思い出す必要はないな、と井沢は心の中で区切りをつけた。


「しかし、部屋も普通の女の子っぽかったし、豪邸に住んでいるわけでもなかっただろう」


 井沢が見た夢には数多くの衣類やぬいぐるみが登場したが、井沢のイメージするようなお嬢様の家らしきもの、即ち王宮風のベッドや召使い、無駄に広い食卓などは一切登場しなかった。夢の内容を平然と語り始めた井沢に、姫野が不満を漏らした。


「井沢さんをうちに上げた覚えはないですよ、もう」


 召使いがいないどころか、姫野の家には両親さえもいないようだった。姫野は家では誰にも出会わず、一人で静かに朝食を摂っていた。ちなみに夢の中の姫野はご飯派だった。なめ茸の入った濃い目の出汁のお味噌汁に、やや多めの醤油が掛かった熱々の子持ちししゃも。焦げ目がとても食欲をそそる。シャキシャキとした少し辛めのきんぴらごぼうの歯ごたえに、ゴマとニンジンの甘さが程良かった。砂糖で味付けをした卵焼き。とても綺麗な黄色だった。卵を2つ使っていて、半分をお皿に盛ってもう半分をタッパーに入れて冷蔵していた。同じくご飯派の井沢にとっては好ましい内容だったが、心持ち味付けが濃かったのと、豆腐か納豆もあった方がちょうどいいボリュームだったかな、と思った。そんな図々しいことに思いを馳せる井沢を他所に、姫野はムフンと胸を張って言葉を続けた。


「私は、よく外貨を売り買いしてるんです」


 外貨? FXとかいうやつのことだろうか? そんないかにも危険そうなもので、姫野はお金を稼いでいるのだろうか? と井沢は思った。何しろ、ネットのニュースではしばしば株価や外貨為替の急な変動が流れてくる。あまり経済に詳しくない井沢にとってそれは絵空事の世界だが、こんな小さな女の子(といっても大学生らしいが)がそんな大変なものに手を出して良い筈がない。


「その顔、良くないって思ってますね? うーん、まあアレですよ。アレ。動きそうなときにですね、何となく分かると言いますか」


 それだけ聞いて、井沢は合点した。ああ、夢で見ればいいのか。それは便利だ、と思った。しかしそれはズルなんじゃないか、とも思った。とは言え、夢で見たからと言って、市場への参加が制限されるのも変だ。それに実際こうして恩恵に預かってしまったわけだし。うーむ。しばらく懊悩を繰り返した後、井沢は姫野の目をまっすぐに見据え、毅然と言い放った。


「なるほど。さすが姫野さんです」


 井沢にはプライドというものがなかった。

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