第17話
日曜日。姫野は十勝と海へ出掛けるとのことで、井沢は久しぶりに終日研究に専念することが出来ると張り切っていた。もっとも、観測値が得られない現状では理論の整備や方法論の改善がもっぱらの主題になるため、姫野に付き合わされている時間も頭の片隅では研究のことを練っているのだが。理論科学系の研究者の多くにそういった性質があることもまた、守秘研究従事者の表向きの仕事に学習支援員のような時間的拘束の強い業務が割り当てられる現状に拍車を掛けている。
井沢は、日村と森尾にアポイントを取っていた。守秘研究従事者であることを周囲に知られないようにするために、科災対本部特別棟地下の日村研そのものにはなるべく出入りしないように決められているので、科災対3研の小ブースを借りてそこに3人は集った。
「まず森尾くんから、最新の実験データの説明を」
3人は真剣な表情で、お互いのデータや仮説を交換し、時に淡々と、時に激しく議論を進めていった。
「いえ、日村先生の仰る意味は分かりますが、光子渋滞の測定誤差そのものが理論誤差を大幅に上回ることが予測され……」
「そうではない。直接観測しようと言うのではなく、干渉点の揺らぎからエントロピーの遅延を逆算するのが今回の趣旨であり……」
「あなたの推測はあまりに不確定性が大きいわ。支出できるとして、20万円程度ね。それ以上の価値が見込めるというなら、まず短期間で時素を大量に集積する手段を……」
情報交換も済み、議論が平坦になったところで、日村は井沢に近況の報告を促した。それはもちろん研究環境についてと、学習支援員としての業務について、即ち姫野の身の回りの世話についてだ。井沢は研究環境、特に物資やデータへのアクセスには非常に満足しているものの、姫野について口を開くと、思いの外愚痴がこぼれ落ちるのだった。
「それにですよ、人の服がダサいとか何とか、文句ばっかりなんですよ」
苦笑いしながらたしなめる日村に対し、森尾は基本的に姫野の肩を持っていた。井沢は、森尾と姫野は仲が悪そうでそれなりに気が合っているのだろうか、と思った。森尾の提言で一旦休憩を挟むことにすると、井沢はメールの受信を知らせる振動に気が付いた。身に覚えのないアドレスが通知されていたが気にせず開いてみると、相手は姫野と海へ行っている筈の十勝からだった。
そのメールには、二人が肩を組み合ってピースしている画像が添付されていた。姫野は水色のホルターネックとボーイレッグで爽やかな夏の少女といった印象で、十勝はピンク色のバンドゥとパレオでどことなく大人びた雰囲気を醸し出していた。日焼け止めをしっかりと塗り込んでいるのか、二人とも真っ白な肌が日差しの中に輝いていた。特に姫野の楽しそうな笑顔は、普段の大学での「外行き」とは違い、心から楽しくて仕方ないといった様子だった。すると今度は、姫野の番号から着信があり、日村と森尾に断って通話を押した。
「ちょちょちょっと井沢さんメールまだ開いてないですよね?! ゆっちが変なの送ったから今すぐ消して下さい!! 開くと感染して呪われますから!!」
耳がキーンとするくらい甲高い声が、井沢に届いた。その声は、少し離れて休んでいた日村や森尾にもかすかに届き、二人は顔を見合わせて笑っていた。
「え、呪いって……もう開いちゃったけど、ああ、水着だからか。別にそれくらい気にしなくても大丈夫だよ」
井沢がそう答えると、電話の向こうでは姫野が十勝をガンガンと叱りつける声が聞こえていた。しばらくして、今度は姫野ではなく十勝の声が聞こえてきた。
「あー、怒られちゃいました」
あまり悪びれる様子が感じられない十勝の声に、井沢は、十勝も姫野と仲が良さそうだな、と感心した。すると、十勝は姫野に聞こえないようにか、くぐもった囁き声で説明をした。
「水着の時は薬を持ち運べないので、チャンスなんです。大事に取っておいてあげて下さいね、それ。結夢だけ一方的にっていうのは、不公平ですから。や、あは! ちょ、ゆ、コラ! くすぐった、あは! 何でもないから! ちょっと井沢さんにね、待って! 離し! ひゃ!」
一方的に、という言葉を聞いて、井沢には思い当たるものがなかった。井沢が聞き返しても、十勝は「結夢から直接、ね」とはぐらかされてしまった。十勝の息遣いが激しくなったので、恐らく走って姫野から逃げながら姫野の電話を使っているのだろうな、と思った。
「あと、睡眠薬とか、入手出来たら、常備すると、いいですよ。あの子、眠らされちゃうと、眠る前には、巻き戻れないんです。私は、そんなの、持ってないので、あとで、ビーチバレーでもして、疲れさせて、そのまま寝かせちゃおうと、思います。あの子、子供みたいに、すぐ、寝ちゃうんですよ」
それを聞き、井沢は耳を疑った。今まで井沢は、姫野の法則が「全てが夢になり朝までの巻き戻る」というものだと思い込んでいたからだった。しかしよく思い出してみると、最初に読んだ法則は「全てが夢になり目覚め直す」というものであった。即ち、最後に目覚めた時間が朝でない場合、例えば昼寝をした場合、昼寝後に巻き戻りが生じたら朝には戻らないのだ。
「特に、結夢が、無口な日は、注意、ですよ。あの子、アレ、狙ってる日は、無口に『ガチャ。ツー、ツー』」
井沢は今まで法則そのものの精緻な認識をしていなかったことに気付き、まだ十勝が話している途中にもかかわらず早口にお礼を言って、勝手に通話を切った。そして、自分を眺めていた日村と森尾に向き直り、興奮した面持ちで提案した。
「姫野の法則、もっと詳しく、もっと厳密に、教えていただけないでしょうか? 特に、細かい例などを添えて。何か、そこにヒントがあるんじゃないかと思って」
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