第12話

「――で、そこの彼氏は?」


 しばらく井沢が黄色い空気に耐えていると、ようやく女の子が姫野に尋ねた。二人のテンションも程々に鎮まり、もう飛び跳ねてもいなければぐるぐる回ってもいない。突然話題の矛先を自分に向けられ、呆けていた井沢は慌てて居住まいを直した。


「それを言うなら『そこの人は?』でしょ! 私の学習支援員の井沢さんよ。例のアレ絡みで」


 井沢は、姫野が口にした「アレ」という言葉に敏感に反応した。日村研の外で「アレ」について言及すること自体あまりない上に、相手は研究者ではなく普通の女子学生だからだ。


「あー、なるほどね。結夢メンクイなのにおかしいなと思ったんだ。略して結夢クイ~」


 井沢は力なくハハハ……と笑いをこぼしたが、内心では笑ってなかった。遠回しに顔がブサイクだと言われているようなものだからだ。初対面でそれはひどくない? と心の汗が流れていた。多分本人たちは悪気がないのだろう。どうせアイドルや芸能人とかと比べて、という意味なのだから。


「誰がメンクイよ! ああ、ええとですね、この子はゆっち。私の幼馴染です。アレの体験者でもあるんです」


 姫野が井沢に向き直って紹介すると、女の子はペコリと頭を下げ、わたわたと元気良く挨拶をした。


「どうも、十勝優です。よろしくお願いします。あ、あと結夢のことも! ふつつかものですが! どうかよろしくお願いします!」


 あまり女性と縁のない井沢は、女性の顔を見ることにも慣れていない。先程までは視界の中に二人を入れていたものの、焦点は合わせずぼんやりと眺めていた。そして面と向かって挨拶をされて初めて、十勝の顔を直視した。人見知りをしなさそうな、どこか自信が溢れているような、元気のある微笑みだった。タレ目に泣きぼくろが特徴的で、メンクイ発言とは裏腹に、心優しそうな子だな、と井沢は思った。


「誰がふつつかものよ! さっきから!」


 文句を垂れる姫野も、どこか嬉しそうで、二人のやり取りを見ていればいかに親密な関係かが容易に伺えた。当の井沢は反応に困り、曖昧な笑いと共に軽く頭を下げるに留まった。


「井沢さん!? そうじゃなくてまず自己紹介です! この前教えましたよね!?」


 姫野は目を吊り上げて井沢を怒鳴りつけた。井沢はその剣幕に押され、無駄に身振り手振りを交えながらおずおずと自己紹介を始めた。


「失礼。えと、僕は井沢慶と申します。所属は科災対1研という研究機関ですが、こちらで準常勤として姫野の学習支援員を務めています」


 科災対1研、と言う時の井沢は見るからに誇らしげであった。科学災害対策省、通称「科災対」は1研、2研といったいくつかの研究機関を束ね、本部には日村研のように世界の最先端を走る研究所も擁している。まさに理工学系の憧れの的である、と井沢は定期的に姫野に語っていた。中でも1研というのは本部直轄の研究機関を除けば最高峰に位置しており、井沢は1研でも新進気鋭の超新星なのだそうだ。井沢曰く。


「ふうん? 研究者なんですね。アレ絡みってことは、アレを専門に研究している人なんですか?」


 十勝がうっかり専門の話題に流してしまうと、姫野は「うっ」と眉をハの字にして口元を歪めた。以前姫野も井沢の普段の仕事が気になり聞いてみたことがあるのだが、よく分からない単語を並べて熱く語りながら自分の世界に入り、適当に相槌を打っていると「質問は?」と聞かれ、特に質問しないでいると逆に理解をチェックしてきたのだ。割りと最悪だった。




 ――そして十数分後。


「というわけで、まず時間の長さという概念を正確に捉えることが、僕達の世界を理解するための第一歩なのです。そこに根付くのが光子、時素、質場といった基本概念。しっかりと基礎を固めないと、こういった現代科学の奥行きを覗き込むことが出来ません。後でしっかりと教科書を読んでおいて下さい」


「は、はい~。次に会う時までにちゃんと考えてきますぅ……」


 十勝もまた眉をハの字にしてタレ目をいっそう垂らしていた。姫野はそれを見て、深々と溜息をついた。姫野は井沢に促され十勝と並んで席に座らされていた。せっかく講義をサボったというのに、何故か講義を受けてしまった。どうしてこうなってしまったのだろう。あと、黙っていたけどゆっちは文学部だよ、と姫野は心の中で思った。


「あ、悪い。姫野をほったからして随分長話をしてしまった」


 ようやく我に返った井沢は、姫野に意識を戻した。すると、姫野は目を少し見開き何かに気付いたような顔をして、すぐさま不満を込めたジト目で井沢を見つめた。


「そういえば井沢さん。気になることがあるんです」


 ぐったりとしていた十勝は、姫野の変化に気付いて首を傾げた。井沢もまた、この静かな雰囲気の中に漂う重い空気を感じ取った。しかし身に覚えもないので、たじろぎながら井沢は聞き返してみた。


「……何だ?」


 すると、姫野は少し目を吊り上げて、ぴしゃりと言い放った。


「何で、私以外の人には丁寧語なんですか?」

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