第45話
12月24日。午後。天気は曇り。厚着をしていても肌寒く、吐く息の白さがいっそう冬らしさを演出していた。
「ふふ……ついに来てしまいましたよ、この時が……!」
街は溢れかえる人々の喧騒に包まれ、その中には目を輝かせて歩く少女と、それを愛おしく眺める男がいた。
「そうだな。僕でさえ待ち遠しかったんだ。姫野にとっては……」
と井沢が言いかけると、燦々とした瞳を一際大きく見開きながら姫野が振り向き、
「そんなの待ち遠しいうちに入りません! 私なんて1ヶ月以上も待たされたんですからね!」
と口元をにやけさせながら咎めた。そんな様子を見て、井沢はクスッと笑った。
「ああ! またバカにして!」
クリスマス・イブは、始まったばかりだ。
――午前中に2つ、井沢は姫野と約束事をした。
「これから巻き戻った時は、1人で抱え込まず、必ず朝に僕に相談して欲しい」
最早何も恐れる必要がなくなった姫野は、その提案に快く頷いた。もう井沢に嫌われる心配もない。2人で解決すれば、きっと道が拓ける。姫野はそう信じていた。
「そして、巻き戻ってしまった時は、次から僕も道連れにして欲しい」
これには少し姫野も戸惑い、返事を躊躇してしまった。予見される巻き戻りが防げなかった場合、井沢に薬を飲んでもらい一緒に巻き戻った方が、井沢も記憶を保持できるため何かと都合が良いことは確かだ。
しかし、巻き戻りが1度や2度で済むとは限らない。場合によっては、何十回、何百回、いや、無限に巻き戻ることになるかもしれない。そんな苦痛を、井沢に味わわせることに、姫野は賛成できなかった。
すると井沢は、姫野の両肩に手を置き、目をじっと見据えて言った。
「僕は絶対に、姫野を無限の巻き戻りから救うつもりだ。だけどこれはただの意気込み。現実にどうなるかなんて、確証はない。そんな口当たりの良い約束だけするなんて、無責任だって思ったんだ。だから、一緒に背負いたい。姫野が負う苦痛も。運命も」
それを聞き、姫野は目を丸くした。井沢の宣誓は、自身も一緒に無限の巻き戻りに身を置く覚悟を表している。
「井沢さん……それがどういう意味か、分かっているんですか?」
もちろん、聞くまでもないことだった。井沢が分かっていない筈がない。無限というのは、本当に無限だ。終わりのない、永遠だ。この上ない、地獄だ。
「ああ。もし運命に抗えなかったとしても、永遠の中に姫野1人を閉じ込める気はない。僕は、責任を持って添い遂げる」
姫野は、責任という言葉にピクリと反応した。1人の研究員に過ぎない井沢が、どうして自分の巻き戻りの責任を負う必要があるのか、と思った。自分と出会わなければ、追う必要もなかった責任を、井沢が負う必要なんて、ないと思った。いや、負わせたくないと思った。
「……井沢さんに、1つ黙っていたことがあります」
そんな想いを胸に、姫野は今まで黙っていた、井沢との出会いの秘密を語った。
「ノートに書いてあったように、私は井沢さんに助けられ、そして巻き戻した後に井沢さんの後を尾けました。……あれはケーキが目的ではありません」
井沢は、黙って姫野の言葉に耳を傾けた。
「私を助けてくれた人に、少しだけ興味があったんです。ほんの少しだけ。そこで、たまたま耳にしたのが、井沢さんと井沢さんのお母さんの会話です」
『――ああ、任期4年の研究ポストが決まったんだ。自分へのご褒美も込めて、な』
「私は何気ないその会話が気になって、後で調べました。研究ポストっていうのは研究をする立場の職業。つまり、井沢さんは4年間だけ研究させてもらえる職を得たばかりだ、って。私はそれを知り、4年過ぎたら路頭に迷ってしまうのだと思い、慌てて策を練りました」
実際は、任期中に別の研究機関なりの公募を探し、新たな職に就くものなのだが、研究者が職を転々とする事情を知らなかった姫野は、井沢の会話を悪い意味に捉えてしまったのだった。
「私が直接雇うのは不審でしょう。4年後は、私も大学生になっています。幸い、ちょうど今の大学で学習支援員制度が始まり、研究員の雇用捻出が行われていました。だから、何とか根回しして私に井沢さんが付くようにしました。私自身が勉強を頑張って今の大学に入れるように成績を大幅に上げるのはもちろん、井沢さんの研究分野を調べ、日村や香織と同じ方向だって分かったら、日村にそれとなく情報を与え、守秘研究の募集を出すように仕向け、それに伴う表向きの職として学習支援員の枠を確保させて」
初めて聞く事実に、井沢は目を丸くして聞き入っていた。それでも構わず姫野は説明を続けた。
「もちろん、枠を用意してもそこに食い込めるのかは井沢さん次第です。研究の業績などには介入できませんし、するつもりもありません。実力がなくて路頭に迷うのは、自業自得ですから。……それでも、井沢さんはこうして日村研に応募し、私の学習支援員になって下さいました。何度も何度も頭の中でシミュレートした自己紹介も、初めて話した時には言いたいことが多すぎて吹っ飛んでしまいましたが」
井沢は、初めて姫野が口を開いた時に、壊れたスピーカーのようだと思ったことを思い出した。あの背景に、姫野の4年越しの想いがあったなんて、当然知る由もなかった。
「ですから井沢さんを巻き込んだのは、私です。私の研究を受け持っているからとは言え、井沢さんが責任を負う必要は、一切ありません」
そう言うと、姫野はスッキリした表情で井沢に微笑みかけた。昨晩の、秘密を口にすることを恐れた子供のような姫野とは違い、全てを白状し、自身の運命を1人で背負おうとする、大人びた姫野が、そこにいた。
ずっと黙って聞いていた井沢は溜息を付き、姫野を諭した。
「色々なカミングアウトで頭が混乱しているが、僕が負おうとしている責任は、研究の責任じゃない。僕は、その……姫野と添い遂げたいんだ。責任を持って、つまり、一人の男として――」
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