第44話
『姫野は、悪くないよ』
35回目の12月23日。全てを吐露した姫野は、井沢のその一言に、心が救われるのを感じた。そして、姫野は前触れなく意識を失った。
井沢は急な出来事に驚いたが、行動は冷静だった。姫野を起こすのではなく、静かにそのままベッドに寝かせたのだった。
もし姫野を起こしてしまったら、もう朝まで巻き戻ることは出来ない。その後の1・2時間で姫野が心不全を起こすとしたら、ループの1サイクルがそれだけ短くなってしまう。丸一日の猶予がある場合と比べて、対処の難易度は格段と上がるだろう。
どうせ心不全が起こるならば、姫野が寝ている間であることが望ましい。寝ている間の心不全ならば、最後の起床である朝に巻き戻るからだ。
その場合、井沢は全てを忘れてしまうだろう。
だけど、姫野は井沢の言動を忘れない。
井沢が、姫野を咎めることなく現実を受け止めてくれることを知っている。
だから、今度は巻き戻った朝に教えてくれる筈だ。そうなれば、姫野の代わりに井沢が医師や日村達に相談することが可能になる。姫野1人で抱えるのでなければ、まだまだ可能性はある。
そう結論付け、井沢は姫野を見守った。
そして、幸いにも心不全は起こらなかった。
運命は、変わった。
「ど、どどどどうして教えてくれなかったんですか! わざわざ昨日と同じ受け答えまでして!」
顔を真っ赤にする姫野を、井沢は軽くたしなめた。まだまだヒートアップしている姫野をよそに、姫野が開けっ放しにした戸からいつもの年配の女性看護師が朝食を持って入ってきて、
「姫野さん? ここは病室ですよ? 静かに出来ないようでしたら先生に言って、今日の外出は見送ってもらおうかしら」
と強い語気で言い放った。しゅんとうなだれる姫野を愛おしく眺めていた井沢だったが、看護師の矛先が移り
「お兄さんがしっかりと注意して下さい」
と咎められてしまった。
「え? はい……」
「うふふ」
朝食を食べながら、姫野がふと口から笑い声をもらしていた。
「どうした? 思い出し笑いか?」
井沢がツッコミを入れると、姫野は嬉しそうに首を振って、
「1ヶ月振りに違う朝ご飯ですもの。嬉しくて当然です」
と答えた。確かに姫野にとってはずっと同じ朝食を食べさせられていたことになる。単に朝食が変わったこと以上に、新しい1日、何が起こるか分からない1日が始まったということの意味を噛み締めているのだろう、と井沢は思った。
もちろん、姫野にとってこの新しい1日は、ただの1日ではなかった。
「それに今日はクリスマス・イブなんですよ!」
待ちに待った、クリスマス・イブ。井沢と外出の許された、特別な1日。
本当は、この日を迎えることを、姫野はとっくに諦めていた。
望んでも望んでも決して辿り着くことのなかった今日を夢見続けることは、精神を耗弱させきっていた「昨日」の姫野にとって残酷この上ないことだったからだ。
それが、思わぬ形で叶ったのだから。
姫野にとってこれ程の喜びはないだろう。
「あー、本っ当においしい!」
姫野は逸る気持ちを抑え切れずに身支度を済ませ、午後を待たずしていつでも出掛けられる状態になった。もちろん午前中は医師の許可が出ていないので、実際にはまだまだ待つ必要がある。手持ち無沙汰になった姫野は、井沢と予定の確認をしつつ雑談で時間を潰していた。
「それにしても、どうして今日を迎えられたんでしょうね?」
姫野の話し方は、今まで通り大人びた丁寧口調だった。昨日の取り乱した姫野、幼さの残った口調の姫野を思い出しながら、井沢は自分の考えを示した。
「前に、人が生涯で感じる最も重いストレスは何か? って話したよな」
井沢がそう言うと、姫野は口に人差し指を当て、うーんと考え込んだ。
『人が生涯経験する中で、最も重いストレスって、自分の死、なんじゃないかな』
姫野が入院し始めた時に井沢が言っていたことを思い出すと、姫野は
「あー、はい。自分の死、って話ですよね」
と答えた。井沢にとってはごく最近の会話だが、姫野にとってはもう遠い昔のような話だ。それでも自分も納得した話題だったため、何となく姫野も覚えていたのだった。
「ああ。だが、もしかしたらそれは違うのかもしれない」
井沢が姫野をじっと見つめると、姫野はドキリと胸の鼓動が高鳴った。いつものヘラヘラとした表情ではなく、真剣そのものの井沢に、姫野は戸惑いながら目を逸らした。
「じゃ……何が答えだと思うんですか……?」
おずおずと姫野が問い質すと、井沢は恥じる様子もなく
「人によっては、愛に由来するストレスが、死のストレスを上回るだろう」
と答えた。姫野は鳩が豆鉄砲を食らったように取り乱し、
「はい!?」
と聞き返すと、井沢は真面目な表情のまま真意を語った。
「世の中には失恋によって自死を選ぶ人もいる。もちろんこれは実際に死そのものを経験する前にそういう選択をしているわけだから、失恋のストレスが死のストレスを上回ることを保証しないが、失恋のストレスが人の命を揺るがすレベルのものであることは確かだ。愛する人に自分の愛が拒まれる。第三者に横取りされる。愛する人を失う。自分の気持ちが伝えられない。色々な状況があるだろうが、愛を由来とするストレスは、いずれも相当なものだと思われる」
井沢の言っていることは姫野にも理解できたが、内容が内容なだけに顔を赤くして黙り込んでしまった。何故急にそんな話を始めたのか理解出来ずにいる姫野をよそに、井沢は更に続けた。
「もし愛に由来するストレスが死のそれを凌駕しうるならば、逆もまたしかり。愛に由来する幸福感が、死のストレスを帳消しにすることだって可能だろう。例えば、愛する人に自分を受け入れられる喜びだ」
姫野はまるで井沢が、「姫野は愛する者に受け入れられたから死のストレスを乗り越えられた」と言っているように感じた。それはつまり、姫野が井沢を愛していると言われているようなもので、慌てて
「それはどういう……!」
と反論しようとしたが、それを制するかのように、井沢が遮って続けた。
「僕は、姫野に全てを話してもらえて、嬉しかったよ。僕のことを受け入れてくれて、ありがとう」
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