第43話
「……35回目、なの」
そう告げる姫野の声は、今にも消え入りそうなほどか細かった。
井沢がその言葉の意味を理解するには、数拍の時間が必要だった。
それだけ、それは衝撃的な数字だった。
姫野は既に、今日を35回も繰り返している。
もちろん、姫野は巻き戻りを回避するために何かしらの努力をしたのだろう。
だが、それらは全て、失敗に終わったということだ。
「……冗談ではないんだな?」
少考の後、井沢は思わず聞き返してしまった。そして、しまったと思った。
「うん……」
子供のように泣きじゃくりながら答える姫野を見て、井沢は自分の軽率さを責めた。どう考えても、姫野が冗談を言う状況ではなかった。
そして井沢の態度は、井沢が一瞬とはいえ現実を受け止められなかったことを表す。事実、井沢は脳髄を金槌で殴打されたような衝撃を覚えた。それほど、信じがたい現実だった。
正直、現実から目を背けてしまったに近い。この場で最も精神を耗弱させているのは自分ではなく姫野なのに。
井沢もまた、弱かった。
「すまない……」
井沢は己の弱さを痛感しつつ、まずは姫野に謝った。姫野は「ううん」と小さく返事をした。姫野を疑うつもりがなかったことは、言われなくても分かっていた。だから、姫野は傷付きもしなかった。傷付くことを恐れた姫野が最も気に掛けているのは、井沢が姫野をどう受け入れるか、だった。
「怒ってる……?」
姫野がそう聞くと、井沢は少しキョトンとした。それから姫野の意図を察すると、やや硬い笑顔で
「いいや。僕こそ気付かなくてごめん」
と言った。姫野が気に掛けていたのは、自分のせいで終焉が始まってしまったことと、巻き戻りについて黙っていたこと、これらを知って、井沢がどういう態度を取るか、だった。
もし井沢が姫野に怒りをぶつけたら。
もし井沢が姫野を咎めたら。
もし井沢が嫌悪を示したら。
いずれにしても姫野は死ぬ。そして巻き戻る。巻き戻ったら井沢は忘れる。いつも通り接してくれるだろう。だけど、姫野は忘れない。巻き戻った記憶を、未来、永劫、忘れない。そういう規則であることを、姫野は知っている。
井沢に嫌われたという思い出を背負ったまま、何百、何千と繰り返し、終わりのない地獄を味わうことになる。それが、恐ろしかった。
「姫野は、悪くないよ」
そう言って、姫野を抱きしめて頭を撫でる井沢の態度に、嘘やごまかしはなかった。この時、「今日」初めて姫野は心から安息を覚えた。思えば、入院が始まってから姫野はずっと嫌な予感がしていた。それもそうだろう、急に倒れ、気が付いたら入院が決まっていて。いつ容態が変化するかも分からない。不安がない筈がない。
井沢とクリスマス・イブの計画を立てていても、心の奥底では、自分の身を案じていた。楽しい筈の計画も、どこか楽しめない自分がいた。ずっと、銃口を向けられ続けているかのような圧迫感が、姫野を締め付けていた。
フッと重荷が降りたのを感じ、姫野は、意識を――。
「姫野、朝だよ」
姫野はいつものように目を覚まし、身を起こさずにボーッと井沢の顔を眺めた。
「姫野がこんなに朝弱いなんて知らなかったな」
聞き慣れた井沢の言葉に、姫野は自分の置かれた状況を思い出した。
(そっか、私また……)
不意にこみ上げてくる涙をこらえ、姫野は小さくあくびをしてごまかした。
「はは、まだまだ寝足りないって感じだな」
ベッドを仕切るカーテンを閉めて井沢に少し出ていてもらい、着替える。カーテンを開けて、顔を洗いに行く。一番近い洗面所の手前の蛇口はお湯が出にくいので、その隣の蛇口を使う。
「おはよう、姫野ちゃん」
他の入院患者のおばさんが声を掛けてくるので、姫野は笑顔で会釈する。
「昨日は酷い目に遭ったわ。ここ、全然お湯にならないのよ」
姫野は院内ということも忘れ、パタパタと音を立てて走り、息を荒くしながら部屋に戻った。
「おかえり。朝食のいい匂いがするな」
姫野の必死な様子を見てニヤニヤとしている井沢に、姫野は顔を真っ赤にして問い質した。
「きょ、今日は何日ですか!?」
井沢は、それに答える代わりに、笑顔で言った。
「メリークリスマス、姫野。……いや、メリークリスマス・イブ? っていうのか?」
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