第48話

「姫野、朝だよ」


 姫野はいつものように目を覚まし、身を起こさずにボーッと井沢の顔を眺めた。


「姫野がこんなに朝弱いなんて知らなかったな」


 聞き慣れた井沢の言葉に、姫野は自分達の置かれた状況を思い出した。


「……バカ」




 ――井沢が服毒した直後、姫野も追って服毒した。姫野の体感では服毒をせずともすぐに発作が出ようことは予測されていたが、姫野はいてもたってもいられずに即座に行動した。そして巻き戻りが起きた。


 巻き戻りの規則を再確認する。


 法則1:


 姫野が絶命した時、時間が巻き戻る。具体的には、姫野の最後の起床から絶命までの間に死亡が観測された生物(姫野含む)の最後の起床時間のうち、最も時刻の早い時点まで巻き戻る。



 法則2:


 この巻き戻りに際し、全ての生物はいったん「巻き戻った出来事」を忘れ、体験者のみ巻き戻り後の最初の起床の直前に、巻き戻った出来事を夢として見る。この夢は完全に記憶され、通常は忘れることはない。



 例外:


 法則2は、巻き戻りが複数回重なる場合に、幾つかの条件の下で例外を持つ。


 1.姫野が絶命する。(つまり巻き戻りが生じる状況)


 2.姫野の最後の起床直前に、姫野が巻き戻りの夢を見ている。(つまり巻き戻りが1度目ではない状況)


 3.その夢の中で絶命した第三者(直前の巻き戻りにおける体験者)がいる。


 4.その第三者は、新たな巻き戻りにおける体験者でない。




 今回の巻き戻りにおける体験者は姫野と井沢の2人。姫野が井沢に起こされた形なので、起床時刻が最も早いのは井沢である。従って、井沢の起床直前まで巻き戻った。


 井沢は夢で巻き戻りの事実を記憶し、病院へ向かって姫野を起こした。姫野もまた希少の直前に夢で巻き戻りの事実を記憶している。




 複雑な表情を浮かべている姫野をよそに、井沢は含み笑いをしながらもったいぶった様子で姫野に問い掛けた。


「さて問題だ。今日は、何月何日でしょう?」


 姫野は突然の質問にわけが分からず、


「え? 12月24日でしょ?」


 と答えた。すると井沢はニヤリと笑い、首を振った。


「残念でした。不正解だ」


 予想外の返答に、姫野は当然のように動揺した。


「え? え? 何で? どうなってるの?」


 混乱する姫野を見て、なおもニヤつく井沢。そんな井沢の様子に、姫野は痺れを切らして声を上げた。


「どういうことなのか教えなさいよ!!」




 ――少し時間を遡る。35回目の12月23日の夜、姫野は井沢に巻き戻りが繰り返されていることを打ち明けた。


 その時に井沢が姫野を咎めず全てを受け入れたことにより、姫野の体を蝕んでいた死と不安に起因するストレスが軽減され、姫野は死の運命を一時的に逃れた。


 姫野が眠りについた後、井沢は病院を離れて日村に報告をした。


 巻き戻りが繰り返されていたこと、もしかしたら今回それを食い止められたかもしれないこと。


 そして、もし食い止められていたとしても、明日には姫野が絶命する可能性が十分高いこと。


 こうなった時の対処は、あらかじめ日村と森尾との間で何度も話し合いをしていた。


 政府に連絡するかどうかは状況次第で判断し、アメリカとフランスの研究機関に連絡するかどうかは政府に委ねる。それについては対して重要ではなかった。何故なら1日の猶予しかない巻き戻りの連鎖に、政府が対応することなんて出来ないからだ。対応を始めた政府の人間がどうあがいても、何ら解決に結び付くまでもなく巻き戻って忘れるだけだ。


 それよりは、現場の人間がいち早く対策を講じるべきだと考えていた。


 その対策の1つが、姫野と同じ薬を持ち歩くこと。


 姫野の巻き戻りが繰り返されていることに気付いた場合に、服毒して共に巻き戻ることで記憶を失わずにすみ、対策を寝る時間を増やすことが出来る。


 そしてもう1つの対策は、寝ないこと。




「――正解は、12月23日だ。36回目の、な」


 井沢は姫野から巻き戻りが繰り返されていることを聞いた後、一睡もせずに日村研でデータを解析した。研究室に寝泊まりしていることが多い日村も、連絡を受けて駆け付けた森尾も、徹夜で大型計算機を動かして12月23日の時素データ及び情報エントロピー伝導の臨界値変動を調べ、朝日を迎えた。


 いくつか気になるデータが観測され、12月24日も日村と森尾は引き続きデータの解析を行った。井沢は離脱し、徹夜であることを気付かれないように身支度した上で姫野を起こし、日村と森尾には悪いと思いながらデートに行った。


 そして、デートが終わりに差し掛かった頃、姫野の命の灯火が消え掛かっていることに確信を持ち、井沢は服毒した。姫野も追って服毒したため、巻き戻りが起きた。




「体験者は僕と姫野の2人。僕は徹夜をしたから、最後の起床が12月23日の朝になる。従って、そこまで巻き戻った。姫野は巻き戻った分の夢、つまり35回目の23日と、24日の夢を見たことになる」


 法則2で見る巻き戻りの夢には2種類あったことを思い出す。


 1つは、体験者自身の夢。巻き戻ってしまった時間の中で体験者が見たり聞いたりした全てのことが、夢となる。法則1によって1度忘れているので、2度同じ体験をするわけではない。体感としては、巻き戻りまでの経験が単なる夢だったかのように、目覚めるだけである。


 もう1つは、姫野以外の体験者が見る、姫野の夢。巻き戻ってしまった時間の中で姫野が見たり聞いたりした全てのことを、夢として見る。


 井沢は自分自身の夢と姫野の夢の両方を見ることになるが、姫野は自分自身の夢しか見ない。


 今回は姫野も2日分の夢を見たことになるが、体感としては単に目覚め直すだけなので、どこからが夢なのかは判断しにくいのである。姫野は24日の夢だけを見たと認識したため、今日の日付を誤解していた。




「すまない。僕も姫野に内緒で日村先生たちと勝手に決め事をしていて」


 急に神妙な顔になり、井沢は頭を下げた。


「えっ? いや、そこまでされなくても!」


 すると井沢のこれまた予想外な謝罪に姫野はあたふたとして顔を上げるよう手振りをした。しかし井沢は頭を上げず、更に謝罪を続けた。


「僕の前で君に巻き戻りをさせるつもりはないって言いながら、結局は……君に薬を飲ませてしまった。申し訳ない。……本当に、申し訳ない!」


 その姿を見て、姫野は激しく胸を打たれた。そして、後悔した。井沢との約束を破って1人で巻き戻りを背負おうとしたことを。井沢がどれだけ真剣に自分と運命を共にするか考えてくれていたかを痛感し、そんな井沢を裏切ってしまった自分を、姫野はひどく情けないと思った。


 嗅ぎ慣れた朝食の匂いが、病室へ近付いてくるのを感じた。

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