【58】それはかけがえのない永遠の……
炎は一直線にアルトルトに向かった。
「トルト様!」
ゼバスティアはフライパンを掲げて、それを盾に炎を防ぐ。
ならばとばかりザビアは、その真っ赤なかぎ爪、大きな手を伸ばして、やはりアルトルトを狙い振り下ろしてきた。
それを今度は横からビヨンと伸びた機械鎧の腕。その手に握られた大きな戦斧が、ガキンと爪を弾く。
「ゼバス」
「はい、トルト様」
「母上をお助けする方法は?」
「…………」
ゼバスティアは息を呑み、目の前の少年の横顔を見た。異形となったザビアを真っ直ぐ見るその瞳には、怒りも憎しみも悲しみさえもない。ただ澄んでいる。
あのような化け物になってなお、ザビアを母と呼ぶか? 自分の命を狙い、母と祖母を殺したと告白した女を助けようとするのは、勇者として正しい心だとは思うが。
「ございません。魔物に成りかけた人間を戻す方法は私も存じません」
これは真実だ。大魔王でさえ、邪悪に染まった半成りを元に戻す方法など知らない。神々でさえ不可能なのが、堕ちた人の心の救済だ。
「そうか」
アルトルトは一瞬沈黙し、そして口を開いた。
「王宮の者達に被害が出ない前に、母上を倒す。ゼバス、大叔父上、イル殿。力を貸してくれ」
「かしこまりました、トルト様」
ゼバスティアが片手を胸に当てる。
「殿下のご命令とあらば」
その黒剣に誓うがごとく、デュロワが目の前で構える。「了解」と機械鎧からイルの声が響く。
そこに再び、炎が吐かれてゼバスティアがフライパンを掲げてそれを防ぐ。振り下ろされた両手のかぎ爪は左を機械鎧の戦斧が、右はデュロワの黒剣ががっちりと受けとめた。
駆け出したアルトルトは一直線に跳んで、横へとオルハリコンの剣を振る。鋭い風斬りは極度につり上がり、真っ赤に輝くザビアの右目を切り裂いた。
ぎゃあああああああああと耳障りなひび割れた悲鳴をあげて、ザビアは片目を押さえる。
「わたくしの顔が、顔が……顔に傷をぉおおおお!! 」
あんな姿になっても美醜にこだわるか? とゼバスティアは呆れる。頭はねじくれた角だらけ、ざんばらの髪となって、確かにドレスだけは破れもせずに、その伸びた背丈に合わせてスカートの裾が広がっている……のが滑稽だった。
「おのれ、おのれ、この者達がどうなっても構わぬか!」
そのかぎ爪が伸びたのは自分の足元。倒れていたパレンスとカイラルの首を掴んでかざす。
「父上! カイラル!」
アルトルトが叫ぶ。デュロワに機械鎧のイルもまた、彼らを人質に取られて一瞬、虚を突かれた。
ザビアは、その長く伸びた上体を屈めて呆然としているアルトルトの眼前へと。
ニタリと笑った真っ赤な口がくわりと開く。
「トルト様!」
ゼバスティアは叫ぶ。
このままではあの化け物に、アルトルトの頭が食われる!
愛しい者が危ないという考えだけで目の前が真っ赤なった。
そして、その気持ちのままに。
────はじけよ!
指パッチンしてしまった!
今にもアルトルトに噛みつこうとしていた、頭が消えた。
真っ赤な血とか飛び散る肉片とか、可愛いアルトルトの目にさらしたくなどないから、異次元に跳ばしてやった。
胴体だけとなった魔女っ子……王妃ザビアのなれの果ては、そのまま黒いもやとなって、ざあっ……と崩れていく。
魔物と成り果てたものは死ねば死体さえ残らない。
全て消えてしまう。
その手に掴まれていた、カイラルとパレンスも床へと落ちる。
「カイラル殿下!」
デュロワがすくい上げるように、その小さな身体を横抱きにする。すぐに、首に指を押し当てて脈を調べると、ホッと息をつき、カイラルとを破壊された部屋で、残っていた長椅子に横たえた。
次に床に伸びているバレンスの首にも指をあてて、アルトルトを振り返る。
「二人とも生きておられます」
「よかった」
アルトルトの向けられた笑顔に、ゼバスティアも微笑を浮かべて頷く。
『あ~あ、殺しちゃった!』
そのとき唐突に頭の中に響いた声。ぎくりとゼバスティアは頬を引きつらせる。
北の魔女だ。
『言ったわよね? あたし、魔王の力でぺしゃんこにしちゃったら、契約違反としてカエルの姿にするって?』
『し、しかし、あれは人間ではなく、半成りの魔物になっていたではないか! さらに、自分の罪を洗いざらい白状したあげくだ!』
『確かにねぇ。大目に見てあげてもいいけど……』
『そうだ、そうだろう!』
『でも、カエルになったほうが面白いから、カエルにしちゃおう!』
『面白いとはなんだあぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!』
北の魔女と頭の中で会話し、百面相するゼバスティアに「ゼバス?」とアルトルトが不思議そうに見ている。
ドロンと執事の姿は煙に包まれて。
「ゲコ」
次の瞬間には執事の黒いお仕着せをきた、カエルの姿になっていた。
「ゼバス!」
アルトルトが自分を見おろし叫ぶのに、ゼバスティアは見上げる。今の少年の青い瞳には、惨めなカエルの姿が見えているのだろう。
ああ、うっかりしてしまったけれど、後悔は……ない。
だって、アルトルトを守れたのだから。
どうせこうなるのなら、初めっからのあの王妃を消し炭にしておくんだった。
「トルト様、これでお別れにございます」
「ゼバス?」
ああ、でも、三歳で王妃を消してしまったら、七歳に成長した、この姿を見ることは出来なかっただろう。
それだけではない。執事ゼバスとして、誰よりも彼のそばにあって、成長を見守ってきた時間は、なによりもかけがえのないものだった。
魔王の千年に比べれば、人の幼子が三歳から七歳になる時間なんて、瞬き一つ分にも満たないのに。
なんて、なんて……。
「トルト様にはたくさん、たくさんいただきました」
「なにを言っているんだ? ゼバス。約束しただろう? 僕とずっと一緒にいるって」
「約束をお守り出来ずに、申し訳ありません」
見上げている視界が潤んでうつむけが、ぴちょんと見おろした水かきのついたカエルの手に、水が落ちるのが見えた。
涙なんて、生まれて千年流したことなどなかった。それもカエルの姿で流すなんて滑稽だ。ゲコ、ゲコと喉が震えのも、これが嗚咽なんて。
「恐ろしい王妃はもう居ません。トルト様の幸せを遠くより祈っております」
ああ、聖堂でのリンゴーンも無くなってしまった。それだけが心残りだ。
「いや、イヤだ! ゼバス! 僕と一緒にいるんだ!」
アルトルトの手が伸びてくる。滲む視界の中、ゼバスティアは叫んだ。
「我だって、ずっとずっと一緒にいたかった!」
だが、アルトルトの手が小さなカエルとなったゼバスティアを包む前に。
その姿は消えていた。
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