【22】執事の決意

   



「トルト様!」


 ゼバスティアは、涙を流すアルトルトの前に片膝をついて、その顔を間近に見る。瞬きもせずに嗚咽も漏らさずに、ただ涙を流す。その姿が痛ましい。

 その濡れた頬に白手袋に包まれた手をのばしかけて、ためらった。執事としてこのように主人に親しく触れてよいものか? と。軽く手を繋いだり、その背に手を当てたことはあれど。

 だが、アルトルトのほうがくしゃりと顔を歪ませて、両手を伸ばしてゼバスティアの首筋にしがみついてきた。受けとめてその背に手を回す。

 そして思う。

 小さい、小さいと思っていたが、まだこんなに小さく、軽く、薄い身体なのか……と。

 本当に、まだまだ幼い子供なのだ。

「声をあげて泣いてよいのですよ。トルト様」

「ふ…ぁ……」

 小さな声は、本当に泣き方を知らない子供のようだった。思い出せば、アルトルトが泣いているところなど見たことはない。笑ったり、怒ったり、すねたりするところはあれだ。

 良い子だ。

 良い子過ぎる子だったのだ。

 人の子のことは育児書を読んでよく知ったつもりになっていた。

 なのに、気づけなかったとは……。

 彼の小さな泣き声とともに、胸に広がるこの感覚はなんだろう? と思う。これが痛みなのか? 切ないという気持ちなのか? 

 完璧な魔王として生まれた自分は感じたことはない。身体も心の痛みも、どうしようもないことへの悔しさも。

 だが、いまは泣くアルトルトになにも出来ない愚かな自分に、怒りさえ覚える。


「申し訳ありません、トルト様」


 これは執事としての上っ面の謝罪の言葉ではない。ゼバスティアとしての心からの“ごめんなさい”だった。


「トルト様をお守り出来ませんでした」

「どうして? ゼバスは僕を守ってくれている。毎日、ずっとそばにいて、おいしい食事だって、作ってくれているではないか」

「それだけでは、それだけでは、ダメだったのです、トルト様」


 ゼバスティアは嗚咽まじりに言う、アルトルトの背を撫で続けた。ああ、彼が寂しいときにどうしてこうやって抱きしめてあげなかったのだろう。

 ときには執事ではなく、一人の人間として……いや、魔族が、魔王がなにを言っているやらと……内心で苦笑する。

 守っているつもりだった。その身を毒から、危険や、継母王妃の人々の前で恥をかかせようとという悪意から。

 だが、それだけではダメだったのだ。


「ううん、ゼバスは僕を守ってくれている。ゼバスがいるから、僕はおいしいご飯を毎日食べられる」

「トルト様」


 なによりも一番守るべきだったのは、その命や身体だけではない。優しくも柔らかい心だったのだ。

 自分は一年も執事としてなにをしていたのだと思う。

 アルトルトのことは一番知った気になっていた。

 だが、本当に人の子のことなどわかっていなかったのだ。


「トルト様、今度こそゼバスは、トルト様をお守りします」

「ゼバス?」


 執事としてゼバスティアは主人を全力で守ると誓い、覚悟を決めた。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 その翌日の深夜。

 アルトルトが寝静まった頃、魔法人形のコレットにあとを任せて、ゼバスティアは王宮を出た。

 向かうは王都にあるとある邸宅だ。

 裏口から通されたのは三階にある主人の書斎。

 その人物は大きな書き物机に腰掛けていた。横にはかの夜会で見た、タマネギ頭に丸い胴体の鋼の魔法甲冑が立っている。


「この執事めの不躾な呼び出し、まさか翌日に応じてくださるとは思いませんでした」


 ゼバスティアは手を胸にあてて一礼をする。


「アルトルト殿下のことだ。とんできて当然だろう」


 ベルクフリート大公、デュロワ・ドンジョンが頷く。夜会で見かけたのは半月ほど前であるが、その黒い髭の男ぶりは変わりない。

 ゼバスティアが魔法書簡を隼の形で送ったのは、前日のこと。ひと飛びでこの隻腕の大公の元へと直接、書簡は届いたはずだが、まさか、翌日にはこの王都にやってくるとは思わなかった。

 ちなみに領地からここまで、交え馬をして昼夜問わず走らせたとしても、三日はかかる距離だ。


「閣下がここにいらっしゃることは……」

「転送陣は使っていない。陛下も、ましてあの王妃も、私が王都にいることはまだ知らない」


 ゼバスティアの問いにデュロワがすかさず答えた。

 王国の各地にある転送陣の施設は、国の直接の管轄となっている。一瞬で遠くの地へと跳べる便利なものだが、高額な通行税を支払わなければならないために、庶民には未だ高値の花だ。

 また、くり返すが施設は国の管轄であるため、要人の動きを当然国は把握している。

 大公が王都に向かったとなれば、すぐに知らせが国王にも入る。

 その転送陣を使わずどうやって、この王都へ? と、怪訝な表情を浮かべたゼバスティアにデュロワが口を開く。


「これでも、先代勇者だからな。石を使わせてもらった」

「石? にございますか?」


 わかっていながら、ゼバスティアは訊ねた。今の怪訝な表情もそうだ。これは勇者や大神官、国王ぐらいの地位の者でなければ知らないことだからだ。


「ああ、勇者には大神殿より神々の加護を受けた転送石が送られる。一度行った場所ならば自由に跳ぶことが出来る便利なものだ」


 もちろん魔王であるゼバスティアもそれは知っている。魔王城の玉座の間まで直接跳んで来られては迷惑だから、そこは強固な結界を張ってはいるが。

 アルトルトのお誕生日会への転送陣? あれは別だ。別。なにしろお誕生日会だし。アルトルトだし。

 そういえば……とゼバスティアは気付く。

 なぜアルトルトには転送石が与えられていない? 生まれながらの勇者の彼にだ。

 石がアルトルトの手に渡るのを、誰が妨害してるか? など考えなくともわかるが。


「書簡は見た。ザビアが直接アルトルト殿下に毒を盛ろうとしたとな」


 王妃という言葉も使わず、デュロワは呼び捨てにした。その深緑の瞳が鋭く光る。




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