【52】震える指先と信じる心
「あーあ、またやっちゃった」
鎮まり返った会場に、アルトルトの声が響く。彼はちょっと照れくさそうに、輝きが納まった弓を降ろしながら。
「だから、弓術は苦手なんだ」
彼の言葉に鎮まっていた会場がざわめく。これでどこが苦手なんだ? と。
「いつも的を壊しちゃうんだ」
まったく子供らしい無邪気な言葉に、会場がどっと笑いに包まれる。それに貴賓席の大公デュロワが立ち上がり、パンパンと手を叩きながら。
「いや、いや、光の矢が見事、的のど真ん中をぶち抜いたのをこのデュロワは見ましたぞ! これぞ勇者の弓術、お見事にございました」
その大公の称賛に、観衆達もまた立ち上がり拍手をして口々に「勇者様万歳!」「
一人だけ、貴賓席に座る王妃ザビアの姿だけがあった。扇で相変わらず顔の半分を隠した彼女の唇は。
「次こそはないわ」
と動いていた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
次の対戦の間の休憩時間。今度は運ばれてきたパサパサのサンドイッチに下剤が仕込まれていた。まったく下品な嫌がらせだと、ゼバスティアはすかさず自分特製のスコーンにすり替えたのはいうまでもない。
そのサンドイッチを運んできた従僕が天幕を出たとたんに、青い顔で下腹を押さえて不浄に駆けていった? 知るか。ちょっと腹の調子がよくなる“まじない”をかけてやっただけだ。
「相変わらずゼバスのスコーンはおいしいな」
「ありがとうございます、トルト様」
スコーンを二つに割って、クリームにマーマレードをたっぷり乗せて囓ってご機嫌のアルトルト。横に控えながら、ゼバスティアはその様子をじっくり鑑賞したのだった。もちろん、口の端についたクリームを、ナプキンでふきふきしてやるのは忘れずに。
次の種目は体術。相手はコロシアムで有名な南の都市のチャンピオンだった。
天幕からアルトルトが出てくると、待っていました! とばかりに観客達の歓声があがる。次の対戦は格闘術ということでアルトルトの姿は、マントも腰の剣もはずした、チュニックとレギンスの軽装だ。
反対側の天幕から出てきた対戦相手の姿に、アルトルト登場の歓声は、大きな不安のどよめきに変わる。
「おい、あんな大男」
「あいつは南のコロシアムで百戦負け無しの猛牛ムッカだ」
「いくら勇者様でも大丈夫なのか?」
相手はコロシアムの拳闘士らしく雲をつくような大男だった。上半身裸に下半身は革の短いレギンス姿。見せつけるように盛り上がった筋肉は、まさしく猛り狂う猛牛そのものの様だった。
それに比べるとアルトルトの姿はまるで、そよ風にポキリと折れてしまいそうな若木のように見えた。
そして、対戦相手のムッカの様子がおかしいことは、天幕にいたゼバスティアだけではない。アルトルトも気付いたようだった。男の血走った瞳を見て、その青空の目を大きく見開く。
天幕から出たムッカは、アルトルトの白い顔を遠くに見るなり、まさしく猛牛のごとく一直線に駆け出したのだ。
あわてて審判が「試合開始!」の声をあげる。完全な後追いだ。
ムッカは日焼けし筋肉の盛り上がった肩を付き出し、アルトルトに突進を仕掛けた。
観客席からは悲鳴が上がる。次の瞬間、誰もが勇者の小さな身体が、牛の角に突き上げられるように宙を舞う姿を想像しただろう。
ゼバスティアは今回も見ているだけでなにもしなかった。薬で凶暴になっているだけの猛牛をいなせないような、勇者ではないと。
実際アルトルトは、その突進を最低限の動きでひらりと横に避けた。
ものすごい勢いだったというのに、二、三歩たたらを踏んで、くるりと振り返ったムッカも、理性を失っているとはいえ、さすがコロシアムのチャンピオンというべきか。
血走った目でギロリとアルトルトを見たムッカは、アルトルトに向かい手を伸ばした。ひょいと上体を斜めにすることで、その大きな手は空を切る。
が、もう片方の手がそのアルトルトが避けた方向を予測していたかのように伸ばされる。少年の細く白い首を狙って。
今の理性を失っている大男ならば、力の加減などせずにアルトルトの首などねじ切ってしまうだろう。
アルトルトは、それもやわらかく上体をのけぞらせて避ける。だけでなく足は地を蹴ってくるりと一回転をして着地した。
この小さな勇者の羽の生えたような身のこなしに、観客から歓声があがるが、それはまた悲鳴に変わった。
アルトルトが着地したところを狙って、ムッカの丸太のような足の蹴りが跳んだのだ。柔らかな腹を狙って。
しかし、アルトルトはそれもまた宙を蹴って避けた。止まらずムッカは、またアルトルトに向かい回し蹴りを飛ばした。
それもくるりと跳んで避けたアルトルトに、観衆はホッと息をつく。
「どうしたの? 勇者様ったら、避けてばかりじゃない。つまらないわ。巨人を倒したという“お噂”を疑ってしまいますわ」
ザビアが皮肉たっぷりに香木の扇をひらひらさせながら口を開く。アルトルトが巨人を倒したのは、たんなる噂どころか大陸中の人々が見た“事実”だ。
まったく無神経なもの言いに、見識ある貴族達はひそかに眉をしかめる。隣に座るカイラルがそんな母に恥ずかしげに俯いたのも、彼女は気付かずに扇をひらひらやっている。
そのとき、大門側の満杯の平民席。設けられていた柵の隙間から、小さな女の子がはじき出されてしまった。子供の名を呼ぶ母親の悲鳴と、観客の大きなどよめきが起こる。
アルトルトに向かい突進するムッカ。その先に少女がいたからだ。
少女を背にかばう様に小さな姿がその前に立った。
アルトルトだ。
天幕の中で懐中時計を視ていたゼバスティアは、アルトルトの前に結界を展開しようと、指を鳴らしかけてそれを堪えた。
ギガンテスを倒した小さな勇者が、人の形の猛牛ごときに負けるわけがない。
監修の人間達にとってはまさしく猛牛の突撃のごとき一瞬。懐中時計の蓋の魔鏡にはゆっくりとムッカが、目を血走らせてうなり声をあげて小さなアルトルトにドスドスと駆けていくのが見えた。
ゼバスティアはギリギリまで見極めて、結界の発動を堪える。額にじわりと汗が滲んだ。
アルトルトが片手を突き出す。その小さな手の平からまばゆい光が放たれるのを視て、セバスティアは会心の笑みを浮かべる。
成った!
そう思った瞬間、自分の指先が震えていることに気付いて、苦笑した。
震えるなど、魔王として生まれて千年。感じたことなどなかったというのに。
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