それはきっと雨のせいだから

 嫌な予感が的中してしまった。

 八町から櫛名を引き剥がしながら俺はきつく歯噛みする。


「まさかこんなことになるとはな。追って来て正解だった」


「お前、さっきカフェにいた……!」


 俺を見て唖然と口を開く八町。


 あれだけ近くにいたんだ。

 流石に姿を憶えられてはいるか。


 しかし、反応を見る限り俺のことは知らなさそうだ。


「俺のことはどうでもいいだろ。そんなことより、さっさと彼女から離れろよ」


「は? なんでテメエなんかに指図されねえといけねえんだ。テメエこそ雫から離れろよ。これは俺らの問題だ」


「俺らの問題、ね」


 確かにその通りだ。

 だからこそずっと櫛名と八町の関係について——さっきのカフェでも——直接介入することは避けてきた。


 だが、もう見て見ぬふりを出来ないところまで来てしまった。

 これ以上傍観すれば、櫛名に危害が加わってしまう。


 それに——、


「よく言うよ。あんたらさっき別れたばかりだろ」


「まだ別れてねえし。痛い目に遭いたくなきゃさっさと失せろ」


 俺の胸ぐら掴み、ドスの効いた声で脅す八町。

 返答次第では本当に殴ると言わんばかりの威圧感を放っている。


「……それで気が済むなら好きにしろ。ただし、代わりにお前が無理矢理彼女をホテルに連れ込もうとした事実を学校にばら撒くぞ」


 毅然と言えば、八町の瞳が大きく見開く。


「てめえ、何を言って……!?」


 櫛名を俺の背後に移動させてから、スマホを操作して画面を八町に見せつける。

 映し出されているのは、拒絶する櫛名の手首を掴んで強引にホテル内に連れ込もうとする八町の映像だった。


 少し離れているが八町の顔は、はっきりと映り込んでいる。

 これで人違いだと言い逃れするのは不可能だ。


「てめえ、これ……盗撮じゃねえか! しかもストーキングもしやがって……ガチで気持ち悪いな、この犯罪者野郎が!」


「同じ穴の狢だ、なんとでも言え。それでどうする? 大事に発展させて俺と仲良く破滅するか、もう二度と彼女と関わらないと誓って大人しく帰るか。二つに一つだ」


「チッ……調子乗ってんじゃねえぞ!!」


「……調子乗ってるのはどっちだよ。分からねえのか。今、決定的な弱みを握られているのはお前の方なんだぞ——


 敢えて名前を口にすれば、八町は驚愕を露わにした。

 パクパクと口を開けてから激しい剣幕で俺と櫛名を睨みつけた。


「おい雫! お前、やっぱり男がいたんじゃねえかよ! 俺のこと騙してんじゃねえよ、ボケが!」


 吐き捨てるようにがなり立てる八町。

 その怒号に櫛名の身体が大きく震えたのが背中越しに伝わってくる。


 途端、腹の奥底から憎悪にも近い煮えたぎるような怒りが込み上げてきた。


 ——お前が、お前だけは……!


「おい、なんとか言えよ雫——んぐっ!?」


「もう黙れ」


 生まれてこの方一度も感じたことのない激情のままに、俺は八町の両頬を掴んで口を塞いだ。

 俺の胸ぐらを掴む手が緩み、逆に俺が八町の動きを制限する形となった。


「てめえだけは、それを言う権利ないだろうが……!!」


 先に櫛名を騙してたのはお前の方だろ。

 いかにも俺が正義だって面して、自分の事は全部棚に上げて。

 そして……平然と裏切って、櫛名を何度も傷つけて。


 あの夜、櫛名の泣いた時のことを思い出すと、あまりの胸糞悪さと怒りで指先まで熱くなるようだった。


 そんな中、ふと建物をちらりと一瞥して、俺はあることに気づく。

 八町の耳元に顔を近づけ、櫛名には聞こえないように声量を抑えて、それを指摘する。


「そういえば、このホテル。先週も来てたよな。——四組のあいつと」


「っ!? おま……!」


「図星だな。せめてもの慈悲だ。櫛名には黙っといてやるよ。代わりにさっさと失せろ。そして、もう二度と櫛名には近づくな。全てをばらされたくなかったらな」


 ——まあ、本当はとっくに気づかれているけど。


 だけど、こう脅しをかけた方が素直に言うことを聞いてくれる可能性が高い。

 まだバレてないってなれば、何が何でもそれを隠し通そうとする心理が働くはずだから。


 対応が甘いのは、重々自覚している。

 本当はこんな猶予を与えるまでもなく、こいつの所業を全て暴露したって構わないが……というより今すぐにでもそうしてやりたいところだが、きっとそれは櫛名の望むことじゃない。


 こんなことしたところで櫛名に何のメリットがあるわけでもない。

 それでも俺は彼女の意思を尊重したい。


 掴んだ手を離すと同時に八町を突き放してから、櫛名の腕を掴んですぐにこの場を離れる。

 バランスを崩して尻餅をついた八町は櫛名に向かって手を伸ばすも、結局立ち上がることすらできずに呆然とするのみだった。






 ホテル街を抜けて暫くすれば激しかった雨足は柔らかくなり、どんよりとしていた空はほんの僅かに明るさを取り戻していた。


 もしかしたら夕方までには晴れ間くらいは差すかもな。

 そんなことを思いながら、後ろに注意を向ける。


 ——八町が追ってくる気配はない……と。


 そのことには安堵しつつも、俺は櫛名に深々と頭を下げた。


「悪かった」


「……え?」


 まさか俺が謝るとは露程も思ってなかったのか、櫛名は目を丸くする。


「助けに入るのが遅くなって。そのせいで櫛名に怖い思いをさせて。本当にすまなかった」


 本当はもっと早いタイミングで二人に追いついていた。

 それと移動する方向から八町が櫛名にホテルに連れ込もうとしていることも予想が付いていた。


 分かっていて——八町を泳がせた。


 そして、その結果がこれだ。

 いくら八町を近づけさせないようにする為とはいえ、許されなくても仕方ない最低な行動だった。


 沈黙が流れる。

 ぱらぱらと降る雨音だけが聞こえてくる。


 数秒か、数十秒か。

 たっぷりと時間をかけてから、ようやく櫛名が口を開く。


「……なんで、すおーくんが謝んのさ」


 俯いたまま櫛名は、震えた声を絞り出し、


「すおーくんは悪くないじゃん。なんだかんだちゃんと助けてくれたし。本当に悪いのは崇志と……何も考えないでついていったアタシ自身だよ」


「……いや、それは違うだろ——」


「違くない! だって、アタシがもっと警戒してたらこんなことにならずに済んだだよ。すおーくんにあんなことさせないで済んだんだよ!」


 俺を見上げて叫ぶ櫛名の瞳には、大粒の涙が滲んでいた。

 必死に堪えてはいるが、それでもぽろぽろと泣く櫛名を見て、鋭利な刃物で突き刺されたように胸が痛んだ。


「ホントにバカだ、アタシ。ごめん。ホントにごめんね……」


 だからなのだろう。

 俺は被っていた帽子を櫛名に被せた。

 顔が見えなくなるくらい深々と。


 唐突な行動に困惑する櫛名に向かって俺は告げる。


「俺のことは気にしなくていい。言っただろ、俺は勝手に付いてきただけのおまけみたいなものだって」


「……すおー、くん」


 再び、櫛名が俺を見上げる。

 庇で表情は窺えないが、きゅっと唇を結んでいることだけは分かる。


 最後の一線を超えないように必死に我慢しているのが伝わってくる。


 でも、どう見たって堪えて消化しきれるものでもない。

 溜め込んでもどんどん辛くなるだけだ。


「泣くなら思いっきり泣けよ。まだまだ雨止まなそうだし」


「え、それって、どういう……?」


「今ならどれだけ泣いても誰も気づかないってことだよ。これだけ降ってたら雨で涙誤魔化せるだろ。俺も何も見ていないし、聞こえてもない。だから、全部——雨のせいにしてしまえよ」


 本当のことを言えば、櫛名が泣く姿などもう二度と見たくないと心の底から思っている。

 けれど、今は心の中に溜め込んだものを全て吐き出して欲しかった。


 空を見上げれば、また雨が強くなってきた。

 打ちつけるような土砂降りで周りが白く霞み、音は全て轟音に掻き消される。


 ——まるで彼女の苦しみを覆い隠し、洗い流すように。


 そして、櫛名はその場に蹲り、大声で泣いてしまう。

 彼女が泣き止むまでの間、豪雨が収まることはなかった。

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