きみが上書きしてよ

 特盛オムライスセットを言葉通りにペロリと平らげた櫛名を見て、姉貴と苺花は滅茶苦茶びっくりしていた。


「雫ちゃん、本当にあの量食べきっちゃうのか〜……」


「雫お姉ちゃん、すごい……!」


 二人がこうなるのも無理はない。

 俺と同じ量を、俺より速いペースで、俺よりずっと華奢なやつが平然とした顔で食ったのだから。


 寧ろ、初見でこれに驚くなと言う方が無理があるというものだ。


 それから暫くして。

 食器は全て片付けられ、櫛名が着ていた服がすっかり乾いた頃には、茜色だった空はいつの間にか大部分が濃紺色に染まっていた。


 家に来た用件は済ませたし、これ以上暗い中を帰らせるわけにもいかないので、惜しみながらも今日のところはお開きとなった。


「悪かったな、長い時間居座らせちまって」


 家から駅まで続く道の途中。

 隣を歩く櫛名に言えば、楽しげな微笑みが返ってきた。


「アハハ、何言ってんのさ。むしろ超絶サンキューって感じだよ! あったかいお風呂に入れさせてもらって、この通り服を乾かしてもらって、更には早めの美味しい夕ご飯を食べさせてもらって。しかも、こうやってすおーくんに送ってもらうおまけつき! こんなのもう至れり尽くせりっしょ!」


「そうか」


「……そうだよ」


 短く言って、櫛名は自身の髪をくるくると指に巻いて弄りだす。

 それからどこか遠い目で空を見上げ、ゆっくりと俺に顔を向ける。


「——すおーくん。本当に今日はありがとね」


「……どうした、そんな畏まって」


「そういえば、まだちゃんとお礼言ってなかったなーって思って」


「それは……何に対しての?」


「何にって……全部にだよ」


 背中まで伸びた白金色の髪がふわりと揺れる。

 翻りながら俺の前に立って櫛名は、


「落ち込んでいたアタシを立ち直らせてくれたこと。最後までアタシの味方だって言ってくれたこと。ずっと陰から見守ってくれてたこと。それから……アタシを守ってくれたこと。それら全部含めて——ありがとう、すおーくん!」


 満開の笑顔をにっこりと湛えてみせた。


 それがあまりにも眩くて、直視できずに逃げるように顔を逸らしてしまう。


「……どういたしまして」


 堪らず、素っ気なく返せば、俺を捉える青の瞳がにいっと細まる。

 にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺に一歩近づいてくる。


「あれれ、照れてる〜?」


「照れてねえし」


「いやいや、その顔は照れてるっしょ〜。無理しなくてもいいんだよ」


 なんか小馬鹿にされてる気がして、ちょっとだけムカついたが……でも、それくらい彼女が元気を取り戻すことができたと思えば、自然と苛立ちはすぐに収まった。

 だって、今みたく心から笑ってもらえるようにずっと尽力してきたのだから。


 ——これで今度こそ俺の役目も終わりか。


 浮気をしていた八町とは無事に別れられた。

 片桐のことで釘を刺しておいたから、再び櫛名に近寄る可能性は低い。


 となれば、もう俺が出る幕はどこにもない。

 あとは彼女を無事に駅まで送り届けて……あと、それと弁当を作る約束を果たせば——どこか寂寥とした思いで考えていた時だった。


「そういえばさ、なんですおーくんはアタシの呼び方、名字のままなの?」


 唐突に訊ねられた。


「……え?」


「だって、海緒お姉さんも苺花ちゃんもアタシのこと名前で呼んでるのに、すおーくんだけ頑なに名前で呼ぼうとしなかったじゃん」


「……それを言ったらそっちもだろ」


「まあ、確かにそーなんだけどさ。でも、アタシとしては、すおーの方が呼んだ時の響きが好きだしなあ。——って、あれれ、もしかして……岳斗くんとか、岳くんとか、がっくんって呼んで欲しかったり?」


「それはない。普通に蘇芳でいい」


「だよねー。すおーくんならそう言うと思った」


 にしし、と白い歯を溢してから櫛名は続ける。


「でも、なんで名字のままなのか理由が気になるなー」


「……別にそんなに大した理由じゃねえよ」


 言うべきかどうか、考える。

 言ってしまっていいのか、逡巡する。


「あ、理由はあるんだ。なになに? 家族の前だと恥ずいとか、そんな感じ?」


「違えよ。その程度だったらとっくに名前で呼んでる」


「じゃあ、なんなの?」


 櫛名は、不思議そうに目を瞬かせる。


 ……まあ、今なら別にいいか。

 そこまでして隠すようなものでもないだろうし、向こうからすればくだらない理由かもしれないし。


 自分に言い聞かせてから、櫛名に打ち明ける。


「——八町のことを思い出させたくなかったからだよ」


「……崇志のこと?」


 ああ、俺は首肯する。


「ホテルの前で櫛名と八町の間に割り込んだ時、あいつ、お前の名前を怒鳴るように叫んで、それで櫛名、お前……震えてたろ。だから、男の俺が同じように櫛名のことを下の名前で呼んだら、もしかしたらその時のことを思い出してしまうんじゃないかって思ったら、呼ぶに呼べなかったんだよ」


「……そう、だったんだ」


「まあ、つまり……あれだ。俺が余計なこと考えたってだけのことだ。理由なんてその程度だよ。……ああ、クソ。自分で言ってて恥ずくなってきた」


 羞恥心を紛らわす為に手のひらで後頭部を掻きむしる。

 あまりの気恥ずかしさから、じっと見つめてくる櫛名の外方を向く。


 それから暫しの沈黙が流れて——突然、顔を両手で挟まれた。

 強制的に正面に顔を向けさせられ、眼前に櫛名の化粧がなくとも綺麗な容貌が飛び込んできた。


 ——どくり、と心臓が強く跳ねた。


「すおーくん、それは流石に考え過ぎだって。それくらいなら全然平気だし」


「……やっぱ、そうだよな。悪い」


「——でも、ありがと。ちゃんとアタシのこと考えてくれて。ガチのガチで嬉しい」


 言って、櫛名は柔らかく笑う。


 ——心臓の鼓動がどんどん強くなっていく。


「すおーくんの気持ちはよーく分かった。けどさ、だからこそ……すおーくん、アタシを名前で呼んでよ」


「それは、どういう理由で……?」


「ぶっちゃけるとね、今、男の人から雫って呼ばれるの……ちょっとだけ怖い。あの時の崇志の顔と声がフラッシュバックしちゃいそうだから」


 すおーくんが考えてくれてた通りだよ。

 苦笑して、櫛名は俺から手を離した。


 それでも鼓動は鳴りやむことをしらない。

 依然として強く、早く鼓動を繰り返す。


「だからさ、すおーくん」


 一度言葉を切ってから、櫛名は言う。


「——きみが上書きしてよ」


 少しだけ泣きそうな笑顔で——。


 ゆっくりと呼吸を繰り返し、少しずつ鼓動を落ち着ける。

 一度瞼を閉じ、それから真っ直ぐと彼女を見据える。


(ここまで来てもう日和るわけにはいかないよな)


 彼女が八町と別れることを決心した日、俺も心に決めたはずだ。

 今回の出来事をいつか笑って流せるよう陰ながら支える——と。


 なら、俺がやるべきことは一つだ。


「……分かったよ——


 瞬間、ぱちりと青の瞳が瞬いた。

 ぱくぱくと口が動き、安堵が入り混じったふにゃりとした笑みが浮かんだ。


「えへへ、なんか面と向かって呼ばれると照れるね……!」


「先に呼べって言ったのはそっちだからな」


 かくいう俺も、なんだかもどかしい何かが胸中に渦巻いている。

 言ってしまえば、かなりむず痒いし気恥ずかしい。

 でもまあ、これで雫が前を向けるようになるならこれくらいお安い御用だ。


「あと人前では呼ばねえからな。周りから変な勘違いされてもお互い面倒だろうし」


「うん、それでいいよ。……そうだ、アタシも二人きりの時はやっぱり岳くんって呼んであげようか?」


「……勘弁してくれ」


 ため息を溢す俺を見て、雫はくつくつと喉を鳴らした。

 そして、俺たちは駅に向かって再び歩き始める。


 雫がまた新しく進み始めるまでにはもう少し時間がかかりそうだ。

 となると、彼女を陰ながら見守る俺の役目もまだ続きそうだ。

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