腹ペコギャルと手を繋いで

 雫に先導される形で水に足を踏み入れる。


 プールの深さは俺のみぞおち程度とそこまで深くない。

 簡単に底に足を着くし、浮き輪も装備しているからまず溺れることはないだろう。

 とはいえ、だからといって足を離すことには躊躇いを覚える。


 もし何らかの拍子でひっくり返りでもしたら確実に死にかける自信があるからな。

 ……微塵も誇らしげに言うことじゃねえけど。


 少し進んだところで雫がにこりと笑う。


「はい、それじゃあ早速浮かんでみよっか!」


「……おう」


 一つ深呼吸。

 浮き輪にぐっと体重をかけ、ゆっくりと水底から片足ずつ足を離してみる。


 ——両足が揺蕩う。

 けれど、気を抜けば離したはずの両足がすぐに沈みそうになる。

 そうならないように必死に両足を動かす。


 そのせいで明後日の方向に身体が流されるも、どうにか浮かぶことには成功した。


「ど、どうだ……?」


「……おお、なるほど」


 安堵するも束の間。

 雫を振り向けば、「コイツ、マジか」と言わんばかりの苦笑が返ってきた。

 それからばっさりと一言。


「すおーくん……想像していたよりも数段酷いね」


「ぐはっ!」


 クリティカルヒットだった。

 率直な反応だからこそ余計堪えるものがある。


「全身に余計な力が入りすぎだよ。そんなに強張ってたらそりゃ水に浮かないって」


 とりあえず一旦足着こっか。

 言って、雫は俺の元へと近づいてきたので、指示通り浮かぶのを止めてその場に立つ。

 両足が底に着いたことで安心感を覚え、ほっと一息つく。


「……すおーくん、ホントにビックリするくらい泳げないんだね」


「言ったろ。自慢じゃないが、こいつが無かったら三秒も経たずに沈むぞ」


「うん、見れば分かる。てか、ここまで泳ぐのヘタな人初めて見たよ」


「ぐ……」


 事実なだけに何も言い返せない。

 そんな俺を見て、雫は柔らかな笑みを浮かべていた。


「……何で笑ってんの?」


「あ、ゴメン。すおーくんにも弱点ってあるんだなーって思ったら、なんだか微笑ましくなっちゃって」


「なんだそりゃ」


 まあ、馬鹿にして笑っているわけではなさそうだからいいけど。


「つーか、俺にだって苦手のことの一つや二つあるっつーの。雫は俺のことなんだと思ってたんだよ」


「んっとね……ヒーロー、だね」


「随分と大仰な評価だこと」


「そうっしょ。アタシにとってすおーくんは、紛れもなくヒーローだよ」


 俺を真っ直ぐ見据えて雫は、さも当然かのように言う。

 冗談めかしているわけではないからこそ、雫からつい顔を逸らしてしまう。


「あれ、すおーくん……もしかして、照れてる?」


「さあな」


 ぶっきらぼうに答えれば、へえ、と一言。

 雫の青い瞳がにまにまと細まる。

 けれど、だからといって何を言うでもなく浮き輪に取り付けてある紐を掴んでみせた。


「ま、それよりも今はすおーくんの浮かぶ練習優先! すおーくんがどっか行かないようにしておくから、すおーくんはちょっとずつでいいからリラ〜ックスして足を離してみて」


「……ああ」


 短く頷き、俺はもう一度両足を離してみる。

 一瞬だけ全身が水中に浮かぶも、すぐに沈み始める。

 咄嗟に足をばたつかせようとして、


「すおーくん、力抜いて〜。リラックスだよ。リラ〜ックス」


 雫のあやすような声で遮られる。

 まるで子供扱いされているようで少し癪ではあったが、呼応するように自然と沈むばかりだった両足が浮き始める。


「そうそう、その調子!」


 嬉しそうに声を弾ませる雫。

 何とも言えない居た堪れなさを感じていると、ふと周囲から奇怪な視線を向けられることに気づく。


 当然か。

 高校生にもなって浮き輪付きで女子から泳ぎ以下のことを教わっているのだから。

 ……うん、側から見れば滅茶苦茶恥ずかしい光景だな。


 まあ、さっきのおぼつかないバタ足を披露した時点でもう後の祭りか。

 甘んじて受け入れるべきなのだろう。


 それから雫の声掛けが効果的だったおかげか、数分もしないうちに意識せずとも両脚とも水中にゆらゆらと揺蕩うようになった。


「お〜、だいぶいい感じになってきたね。最初と比べればかなり見違えたよ」


「……まあ、最初と比べればな」


「それじゃ、次は浮き輪なしで浮かんでみよっか」


「は?」


 思わず素っ頓狂な返事を返してしまう。


「いやいや、いきなり段階すっ飛ばし過ぎだろ。比喩抜きで溺れ死ぬぞ」


「だいじょうぶだって。へーきへーき」


「何を根拠に……」


「とりあえず浮き輪をアタシに渡して手出して」


 いまいち話の流れが掴めないが、言われた通りにする。

 すると、雫は受け取った浮き輪の紐に腕を通してどこかへ流れないようにしてから、俺の両手を取った。


「……何、この手?」


「何って、すおーくんがどこかに行かないようにするためだけど。掴んでないと変な方向に流れていっちゃうでしょ」


「それは、まあ……その通りだが」


「でしょ。だから、すおーくんは大人しくアタシのこと掴んでてよ。……絶対離しちゃダメだからね」


 それ俺が言うべき台詞のような気がしなくもないが……まあいいか。


 これ以上晒す恥もないので、俺よりも一回り小さい線の細い手のひらをそっと握り返せば、雫は嬉しそうに笑みを溢した。

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