腹ペコギャルを家に招く
十分もすれば激しかった雨はかなり柔らくなり、今度こそ分厚い雲の隙間から晴れ間がほんの僅かながら差し込んできた。
とはいえ、完全に止むまではまだ暫くかかるだろう。
「——落ち着いたか?」
「……うん」
訊ねれば、櫛名はこくりと頷く。
立ち上がった彼女の顔は帽子で見えなかったが、少しだけスッキリしていることは直接確認せずとも伝わってきた。
「あの……すおーくん。帽子、ありがと」
少しだけ枯れた声で言って、帽子を脱ごうとする櫛名を手で制する。
「まだ返さなくていい。顔、見られたくないだろ」
あれだけ号泣したわけだし。
「とりあえず、もう少しだけ被っとけ」
押し込むように深く被せれば、櫛名は不満を露わにこちらを見上げてきた。
「……女の子の頭はもっと丁重に扱えし」
「あ、悪い」
憮然と言う櫛名に素直に謝る。
——良かった、いつもの調子に戻ってきている。
これなら大丈夫そうか。
表情に出さないで安堵した時だった。
「くしゅっ!」
櫛名が可愛らしいくしゃみをした。
「大丈夫か……?」
「うん、へーきへーき」
そう答える櫛名だが、指先が少し青白くなっている。
こうなるのも無理もないか。
もう六月に入ってるとはいえ、ずっと大雨に打たれてたんだ。
加えて、さっきの出来事で精神的にかなり疲弊しているともなれば、体温が低くなっても仕方ないだろう。
そんなことを思っていると、俺も少し肌寒さを感じる。
そこでようやく気温が下がっていることにも気づいた。
こうなると、早いところ家に帰したいところだが——、
「そういえば櫛名の家って、ここから近いんだっけ?」
「一駅だからそんなに遠くはないけど、一度駅に戻らないと……」
「そうか……」
となると今、駅に送り返すのは止めといた方がいいか。
可能性が低いだろうけど、八町とばったり遭遇するかもしれないし。
何よりこんなずぶ濡れの状態のまま電車に乗れと言うのも酷というものだ。
一応、解決策が無いわけではない……のだが、櫛名のことを思うとこれはあまり気が進まない。
だけど、このまま家に帰すよりはマシではあることも確かだ。
——どうするのが正解だ……?
悩みに悩み抜いた末、ダメ元で提案してみる。
「……なあ、櫛名」
「ん、なになに?」
「さっきあんなことがあったばっかなのに、こんなこと聞くの自分でもどうかと思うんだけどよ。……その、だな……もし櫛名さえ良ければなんだけど……」
「ん、どしたの? そんなキョドって。ちょっとウケるんですけど」
「……そりゃ、我ながら馬鹿げた提案しようとしてるからな」
盛大なため息を吐きながら答えて、ハッと気づく。
——あ、やべ。
しかし、気づいた時はもう手遅れだ。
「へえ〜、馬鹿げた提案、ね。すおーくんは、アタシに何を提案するつもりだったのかな?」
「……それは——」
「それは〜?」
帽子で顔が隠れているのに、にやにやと笑っているのが見て取れる。
櫛名のやつ、完全におちょくってきやがるな……!
けどまあ、裏を返せば、それくらいいつもの彼女になってくれた証でもあるか。
それ自体は本当に喜ばしいことだ。
喜ばしいことなのだが……だとしても、腹が立つことには変わらない。
おかげか変に気が削がれて、緊張がほぐれた。
そのままの勢いで俺は、単刀直入に櫛名に訊いてみる。
「櫛名が良ければだけど、家で風呂入ってくか? 俺の家すぐそこだから」
「……え、えーっと。その、それって——」
「先に言っとくけど、断じて違うからな。そのままだと風邪引きそうだし、その状態で電車乗るのもよくないよなっていうあくまで純粋な善意としてだな……! そもそも家には誰かいるはずだし……マジで櫛名に何もするつもりはないから。本当に何も——!」
しどろもどろになりながら、言い訳がましく必死に取り繕う。
——馬鹿か、俺は!
こんなだと逆に下心出してると思われるだろ……!
自分に対してツッコミを入れていると、櫛名がぷっと吹き出した。
「ちょっ、すおーくん取り乱し過ぎ……! マジウケるんですけど!」
それから腹を抱えて大笑いする。
あまりに笑い過ぎて、再びその場に蹲り始めた。
「笑い過ぎだろ」
「だって……さっきあんなバリバリにきまってたのに、今のすおーくん、その面影がまるでないんだもん! あー、ガチ腹痛い……!」
「……悪かったな」
憮然と言えば、櫛名は庇を上げて笑顔を見せた。
目元はすっかり赤く腫れぼったくなっているが、相変わらず目を奪われる整った鼻梁だった。
「——うん、折角だしお言葉に甘えようかな!」
「……本当に、いいのか?」
「うん、いいよ。だって、すおーくんのお誘いだもん」
言って、櫛名はにっこりと笑ってみせた。
その笑みが妙に眩しく感じて、思わず櫛名から顔を逸らしながら、ポケットからスマホを取り出す。
「一応、家族に先に連絡入れとくから、ちょっと待っててくれ」
LINEを起動して姉貴に通話をかければ、数秒と経たずに応答が返ってくる。
『お〜、岳。急にどうしたよ』
「姉貴。今、家?」
『そうだけど、なに?』
「一つ頼み事があるんだけど、今の大雨でずぶ濡れになったから風呂沸かしといてくれない?」
『はあ? なんで私がやんなきゃならないのさ。めんどくさい。自分でやれ』
「風呂入るの俺じゃない。友達」
刹那、姉貴の態度が一変した。
察したか。
『馬っ鹿! それを先に言いなさいよ! 速攻でやるから! ちなみに、あとどれくらいで家着くの!?』
「十分もしないくらい」
『オッケー! じゃあ、なんかあったかいのいる!?』
「あれば適当に頼む」
『了解、お姉様に任せなさい! そっちも準備しておくから!』
言うや否や、通話がぶつりと途切れた。
俺はスマホをしまいながら、櫛名に視線を戻す。
「よし、オッケー。家族の了承も取れたから行くぞ」
姉貴には友達としか言わなかったが、あの感じからしておそらく櫛名のことだと確信がついているはずだ。
既に櫛名のことを知られていたおかげで、余計な説明をする手間が省けたな。
バレたのは無駄ではなかったと思っていると、
「すおーくん、お姉さんいたんだ」
櫛名が意外そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「まあな。それと妹もいる。多分、そっちも家にいるんじゃないか」
「へえ、楽しみ!」
そして、にっこりと破顔して俺の背後に回る。
「よーし、それじゃあ、すおーくんハウスに向かってレッツゴー!」
「分かったから、背中押すな」
小さく嘆息を溢しつつも、すっかり元気を取り戻してくれたことに胸を撫で下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます