第51話

「ちなみに、ここが俺の住まい」


 駅から歩いて十分ほどのマンションに着くと、要は入り口の前で杏子を抱き寄せた。


「向井くん、すぐそこまで来ているから」


「ほんとについてくるなんて」


「よっぽど君のことが好きみたい。大丈夫、ほんとにしないから目をつぶってくれる?」


 要の顔が近づいて来た。


 杏子が慌てて要の腕を掴んだところで、駆け出してくる足音が聞こえてくる。


 次の瞬間、杏子はぐいっと腕を引っ張られた。


 要が苦笑いしながら「やっぱり」ねと呟いた。腕を掴んできたのは晴だ。彼は、今まで見たことがないくらい複雑な顔をしていた。


「だめだあんこ、そいつはダメ。俺にしておけ」


「そいつ呼ばわりはひどいなあ、向井くん」


 要は笑いながら杏子の腕を強めに引っ張った。


「痛っ……」


 杏子が痛がると、晴はすぐにパッと手を離す。その反動で、杏子は要の胸の中に背中から飛び込んでしまい、すっぽりと抱きしめられる。


「おいこらおっさん、あんこを放せ」


「んー、嫌かな。大冨さんと、このあと予定があるんだ。邪魔しないで帰ってくれる?」


 向井くん、と要が冷静に名前を告げる。


「大冨さんを返してほしい?」


「遊びなら返せ」


「遊びじゃないならこのまま連れ去ってもいいんだね?」


「――待て、ダメに決まってる。あんこ、本当にこいつでいいのかよ?」


 晴は今までになく困惑した様子だ。


「なんで晴は私がいいの? なんでそこまで固執するの?」


 晴は気落ちしたように肩を落とすと、ゆっくりと歩み寄ってくる。そして、杏子の手を取った。


「バカだな、あんこ。最初から、お前しか見えていないよ、俺は……」


 晴の手がぎゅっと杏子の手を握る。


「チビの時からずっと、あんこのことしか頭にない。お前だけだよ、俺に遠慮しないでつっかかってくるのは」


 悪ガキかつガキ大将のカリスマを発揮し、晴はいつもちやほやされていた。


 それが、親があまり家におらずかまってもらえない寂しさの表れだと知っているのは、杏子と杏子の両親だけだ。


 だから、杏子は晴が苦手だったとしても、彼のことを怖いと思ったことは一度もない。


 みんなが晴を恐れてゴマすりして彼に近寄る中、杏子は喧嘩三昧の弟くらいに思っていた。


「だって、晴は晴だから」


 晴は、晴でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。だから、世界で一番、本当の晴と向き合ってきたのは杏子だけだ。


「だからだよ。俺がどんだけ好きか、わかってないだろバカ!」


 急に怒鳴られて杏子は目を見開いた。


「いいかおっさん。あんたがあんこのこと好きだって言うなら、俺はその一万倍あんこのことが好きだ。小学生の時、俺と結婚するって約束した時からな!」


「……え!? 私そんなこと言った!?」


 晴のデコピンがすっ飛んできて、杏子は「痛い!」と悲鳴を上げた。


「そうだよバカ。あんこが言ったんだろうが、忘れるな!」


「あっ……そういえば」


 ――それは杏子が小学三年生、晴が年長さんの時だ。


 公園で遊んでいると、同級生の力の強い男の子にお気に入りのハンカチを取り上げられ、泣いてしまったことがあった。


 大喧嘩してまで取り返してくれた晴が格好良く思えて、杏子は『晴と結婚する』と言ったのを思い出す。


「そんな昔のこと、覚えていたの?」


「逆に、なんで忘れるんだよ。脳みそまであんこか! いまさら言わせるとか恥ずかしいだろ!」


 あまりにも晴が顔を真っ赤にしているので、杏子は嬉しさと込み上げてくる気持ちで胸がいっぱいになった。


 想えばあの時から、晴は杏子に対してずっとわかりにくい愛情を向けてきていた。

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